天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

死を詠む(13)

時計の文字盤

  大といふ字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり
                      石川啄木
  苦しければ死なむと思ひたちまちにこころよければ癒えんと思ふ
                     三ヶ島葭子
  迫り来る蘇軍重囲のまぼろしに身は死にがたく子を抱く妻
                      山本友一
  死ののちもかの老人は尾根行けり頬かむりして向うに越ゆる
                     前 登志夫
  死ぬことは〈言(こと)〉切るること死者達の遂に成らざる声想ふべし
                      桑原正紀
  死ぬ父に抱かせし母を恥(やさ)しめば確かな地上のカルネ 眩ゆい
                      橋本俊明
  予感なくきたる死あらん時計の文字盤今宵みづみづとして
                     真鍋美恵子


啄木の歌の「大といふ字」は大望の「大」と解釈したい。自分には大望があるんだ、という気持があったに違いない。三首目の山本友一の歌は分かりにくい。まぼろしは妻が見ていたと思われるが、そのことを夫の山本に話していたのだろうか。桑原正紀の歌に関しては、上句は辞書的には間違いであり、彼の押し付けである。そこで歌になった。死ぬことは正しくは「事切れる」と表記する。橋本俊明の作では、「地上のカルネ」が分からない。カルネといえば、自動車やバイクを海外へ持ち出す時に通関手続きを簡略化する為の書類のことだが。