死を詠む(15)
単衣(ひとへ)きて心ほがらになりにけり夏は必ずわれ死なざらむ
長塚 節
死ぬ者はすでに絶えたるわが家もあぢさゐ咲きて心喪に入る
富小路禎子
死ぬという大仕事だれも残しつつ春は桜花の下にて笑まう
本土美紀江
死ぬるとき生まるるときに日柄など思ふ人なしと言ひし人あり
木沢文夫
死もあそび生もたわぶれ極月の月天心にありて動かず
山埜井喜美枝
黄昏にふるるがごとく鱗翅目(りんしもく)ただよひゆけり死は近からむ
小中英之
水につばき椿にみづのうすあかり死にたくあらばかかるゆふぐれ
松平修文
人の死のあやうき時も計りえぬ盲(めしい)なりしよ夫のかたへに
生方たつゑ
ここには死ぬときを想像する歌が多い。西行ではないが、日本人なら誰しも桜の花を見ながら死にたいのではなかろうか。長塚節は単衣(ひとへ)きて心がほがらかになるので、夏に死ぬことはないだろうと詠う。死ぬときに、今日は良い天気だなどと言うことは、ないのだろうか? 木沢文夫の疑問であろう。年の瀬の十二月の月を見ながら、死もあそびだと感じられる山埜井喜美枝のような人がうらやましい。生方たつゑは、夫の臨終のときに目が見えなかったのだろうか。そうではなく比喩であろう。