天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

松の根っこ(10/15)

三鬼全句集(沖積舎)

処女と老婆
   白馬を少女瀆れて下りにけむ
無季俳句。この句について意味を詮索するのは、詩の世界から逸脱して下卑た話になりかねないので、三鬼自身の自注を引用するに留める。感覚的に、生の生々しさが感受できれば十分である。曰く、
「代々木乗馬会で作った。後年「白馬」を白馬岳と解した人が出て来たには驚いた。或る女医専の学生は、この白馬を裸馬と解したと聞いた。これには作者が感心した。昭和十一年の作。」
   緑陰に三人の老婆わらへりき
井の頭公園にて。三人という数字は天が定めた数、との自注があるが、実際の数だったかどうか不明。わらへりき、の乾いた響きが不気味さを醸している。
   空港なりライタア処女の手にともる
見送りに来た三鬼の恋人がパチンと手にライタアを鳴らした。空港なり、という乱暴とも思える切り方が独特。
   処女の背に雪降り硝子夜となる
昭和十五年、日比谷に近い喫茶室で熱い茶を飲むお嬢さんを見ていた。
   おそるべき君等の乳房夏来る
初出は、夏に入る。おそるべき、で圧倒される豊満さが、夏で生命感が、際立った。
   少女二人五月の濡れし森に入る
濡れし森、という言い方が官能を揺さぶる。レスビアンの少女達であろうか。
   しゃべる老婆青野を電車疾走す
三鬼における老婆は、この句から感じられるように、生への執着を象徴するキーワードなのである。
   老婆来て赤子を覗く寒の暮
初めは、のぞくとかな書き。寒い夕暮時、おばあさんが心配して赤ん坊を覗き込むなど変哲もないありふれた場面なのに、「老婆」と「赤子」の字面、それに季語の「寒」が、ある種の不安を呼び起こす。果たして老婆は、赤子を心配して覗きにきたのであろうか。「覗く」と直した意図がわかる。これも三鬼の巧まざる技といえよう。