天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

スミレと薺(なづな)(1/10)

『春 川崎展宏全句集』

[注]本シリーズの内容は、「古志」2014年2月号に発表した評論「スミレと薺」と同じものです。

はじめに
去る平成二十一年十一月二十九日に亡くなった川崎展宏の俳句を集大成した『春 川崎展宏全句集』を読んだ。現代俳句ながら古典的な風味が強い。俳諧(発句)の精神を濃厚に受け継いでいるように感じられた。それもそのはず、後日読んだ彼の『俳句初心』に、彼の作句姿勢が次のように暗示されていた(初出:「朝日新聞」平成八年三月二九日)。
 「近代俳句の写生の大道は滑稽を疎外してきた。だが子規が近代にひろめた
 「俳句」の名称が「俳諧の発句」の意とすれば、芭蕉の蛙の句の真意に照らし、
 俳句に俳諧を取りもどすべきではないか。写生の成果を十分に踏まえながら。
 写生の方法での新しい作が望めないとはいわない。が、大きな季語には、すでに
 写生の名吟、秀吟がひしめき、季語によっては、新しい写生の道はほとんど閉
 されている、といっても過言ではあるまい。」
本論では、「俳句の基本は笑い」(「貂」句会の川崎展宏語録)との信念で作られた川崎展宏の俳句を、川本皓嗣の「俳句の詩学」に沿って分析すると共に、俳諧精神の継承が感じられる具体的局面を芭蕉の技法と比較しながらみていきたい。分析結果が希少瑣末な事象でないことを示すため、できるだけ多くの例をあげる。
実は、展宏の代表句「「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク」も辞世句「薺打つ初めと終りの有難う」も、それぞれが芭蕉の句を踏んでいると考えられ、そのように鑑賞すると興趣が一層深まるのである。