天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

スミレと薺(なづな)(9/10)

零式戦闘機(webから)

戦時体験から
川崎展宏にとって戦時体験は、重要な作句動機になった。彼の十代は第二次世界大戦と重なっていて、学徒勤労動員を経験し、B29が東京市街を空襲するのを間近に見た。
        南無八万三千三月火の十日
八万三千は「米国戦略爆撃調査団報告」による東京大空襲の日(三月十日)の死者数。調子のよい韻律が無常感をさそう。
        曼珠沙華零戦一万四百余
零戦の総生産数は一万四百三十一機という。
水兵の影が見てゐる石蕗の花
呉の「大和」記念碑のあたりに石蕗の花が咲いていた。
        三千ノ骸(ムクロ)屹立桜吹雪
「三千ノ骸」は、吉田満戦艦大和ノ最後』の中の言葉。日本の兵達は、いずれ靖国神社の桜の花の下に集うことを誓っていた。
        次々に黄砂を拭ふ帰り水
帰り水は門司駅の水道水。引揚者が故国の水に喉をうるおしたという。
        敗戦の年の真赤な天井守
天井守はヤツブサ(八房)の別称。ナス科の一年草である。
        戦艦の骨箱にして蕨萌ゆ
方二メートルの箱に、戦艦大和以下海上特攻作戦の戦死者三千七百二十一柱を祭るという。奈良県天理市・大和(おおやまと)神社の境内にある。
           特殊潜航艇の残骸に触れて
        潜航艇青葉茂れる夕まぐれ
江田島の海自・術科学校に保存されている特殊潜航艇であろう。真珠湾攻撃から使用された特攻兵器である。言うまでもなく、中七座五は、落合直文作詩、奥山朝恭作曲の歌「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ・・」からきている。特攻隊の隊員やすぐ下の世代である展宏たちは、この歌をよく唄ったらしい。楠木正成・正行父子の訣別の場面が彼らの琴線に触れたのである。
        桜貝大和島根のあるかぎり
大和島根には、➀日本国 ➁大和島 という二つの意味がある。それぞれの場合で、句の解釈が違ってくる。万葉集にもそれぞれの例が載っている。
➀の場合: 戦争には負けたが、日本国が存在する限り、海辺では可憐で美しい桜貝を見つけることができよう、と詠う。祖国愛の詩である。万葉集には、「いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天地(あめつち)の堅めし国そ大和島根は」がある。
➁の場合: 戦争に負けて日本という国が消滅しても大和島即ち日本列島がある限り、その浜辺では美しい桜貝を見つけることができよう、という自然の美しさを賛美する。万葉集には、「名ぐはしき印南(いなみ)の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は」がある。
なお「桜貝」を世界最短詩形である俳句の喩とする鑑賞もある。
           戦艦大和(忌日・四月七日)
        「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク
展宏の自註によれば、鎌倉・七里ケ浜を散策していて出来た句。吉田満の『戦艦大和ノ最後』が脳裏にあり、スミレをよくみかけたのが契機になったという。以下は筆者の想像だが、電文句の形にしたのは、高浜虚子の次の句が潜在意識に働いたのではないか?
           九月十四日。在修善寺。東洋城より電報あり。曰、センセイノ
ネコガシニヨサムカナ トヨ 漱石の猫の訃を伝へたるものなり。
返電(明治四十一年)
        ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
また芭蕉の「山路(やまぢ)来(き)て何(なに)やらゆかしすみれ草(ぐさ)」が響いているように思われる。海底の斜面に沈んだ戦艦大和の兵士たちがさしかかった「ヨモツヒラサカ」と現世の旅で芭蕉が行く険しい「山路」が対応し、彼らの心を安らげたのが「スミレ」と「すみれ草」で共通していた。「「大和」より」の句は、以心伝心、拈華微笑の名吟といえる。
芭蕉句との関わりについては、「貂」同人の須原和男も同様の感想を述べている。)