天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

自然への挽歌(2/9)

小池光『現代うたまくら』

題詠からの脱却 
題詠の歴史的経緯については、佐佐木幸綱の評論がよくまとまっているので、以下に抜粋して紹介しよう。
「題詠」が、短歌史の全体をおおうほどに重視された第一の理由は、「題」を通して「古」にそまり「新」を見る装置であったからなのである。「題詠」によって「古歌」を招き寄せ、そのことによって私性を振り払うという実際的な効用も「題詠」にはあった。踏襲とは、「私」を超克するための階梯でもあったのだ。異なった利益階層が歌という一つの世界を共有するためには、「題」は日常次元、生活次元から遠いほうがいい。歌は、個人的日常、生活的次元に引き寄せてはならないのである。題はそのための虚構の空間を提供する装置として機能した。
「歌枕」についても同様であった。『俊頼髄脳』には、〈世に歌枕といひて、所の名書
きたるものあり、それらが中に、さもありぬべからむ所の名を、とりて詠む常のことな
り。それは、うちまかせて詠むべきにあらず。常に人の詠みならはしたる所を詠むべき
なり〉とある。歌枕について独自の個性的な見方を排している。
与謝野鉄幹「亡国の音」(明治二七年)にはじまる短歌革新運動は、端的に言って「題
詠」否定の文学運動であった。鉄幹が基本的に何を否定し、攻撃しようとしているかと言えば、「題詠」「暦」「歌枕」を機軸とする短歌、なかんずく「題詠」を機軸とする短歌なのであった。つまり、文学の中で文学を考える考え方、自然、現実、具体を遠ざけて観念性、抽象性に即こうとする表現態度、類型を恐れず場当たり的な個性の露骨な露出を抑制しようとする作歌観を否定した。
正岡子規が短歌史において果たした役割も、本質的には「題詠」否定の一事だったと
いうことができる。彼は、短歌史に俳諧の「横の題」的「題」意識を持ち込んだ。それ
が彼の短歌改革の中核である。(『佐佐木幸綱の世界5』近代短歌論・題詠とは何か)
注意すべきは、題詠が無くなってしまったわけではないこと。正岡子規が根岸で歌会を催す際には題を出して詠んでいた。実情を言えば、題詠の題が普遍化して、何をもってきてもよくなったのである。つまり旧派和歌のように、古今集以来決められた題に縛られることがなくなった。近代短歌以降は、部立ての意識が希薄になり、折にふれて詠む歌(旧来の雑詠)かテーマによる連作が主流になった。部立て・題詠の考え方は俳句に季題・季語として進化し引き継がれていく。
ちなみに子規は、短歌に用いる言葉についても、次のように主張している。
雅語俗語漢語洋語必要に応じて用いる。趣向に変化がないと腐敗する。趣向の変化のためには、是非とも用語の区域を広くする必要がある。文明の器械は、多く不風流なものなので歌には入りがたいが、もしこれを詠む場合には他の趣味あるものを配合するとよい。例えば、「レールの上に風が吹く」などは殺風景。せめて、レールの傍らに菫が咲いているとか、汽車の過ぎた後で罌粟が散るとか薄がそよぐとか配合すればよい。(「歌よみに与うる書」)
歌枕についても考え方がガラリと変った。王朝和歌では、歌枕は「虚」の構造をもつ約束ごとの名前であった。明治の短歌革新によって、歌枕は「実」の輪郭を持つ個性的な名前になった。(小池 光『現代うたまくら』)