天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

自然への挽歌(3/9)

『金槐和歌集』

絵画手法の導入 
はじめに正岡子規が写生の方法を短歌に持ち込む契機となった考え方を「歌よみに与うる書」から要約しておこう。
詩歌に限らずすべての文学が感情を本としていることは古今東西共通である。感情を本
とせず、理屈を本としたものがあるなら、それは歌でも文学でもない。主観的というところにも感情と理屈との区別がある。排斥すべきは、主観中の理屈の部分である。
写実というのは、合理非合理事実非事実を意味するものではない。油画師は必ず写生によっているが、神や妖怪を面白く描く。そこでは一部一部が写生に依拠している。
純客観の歌の一例  『金槐和歌集』より
 武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原
純主観の歌の一例 『金槐和歌集』より
 物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかな親の子を思ふ
周知のように子規は、洋画家・中村不折と親交があった。写生については、「病床六尺」において具体的に述べている。
子規の短歌写生の方法を受けてさらに精密な理論化を図ったのが斎藤茂吉である。茂吉は、セザンヌ印象派の画法を文芸誌「白樺」から学んだであろうし、画家・平福百穂と親しかった。写生に関する子規と茂吉の考え方の違いについては、佐佐木幸綱がまとめているので、それを以下に紹介する。
「病床六尺」から考えると、子規の〈写生〉は、実践的・現実的な強さがその特色で
ある。後に茂吉が言及するように、理論的な精密さには欠けていた。子規において〈写生〉は方法であった。相対的に、あるいは戦略的に、〈写生〉が有効であることだけを説いていた。それが有効であることを、あくまでも実践的・現場的に体得していたからだった。だが、茂吉においてはそうではない。茂吉は、その子規の〈写生〉を継承しつつ、〈写生〉は歌の本質たりうると幻想した。そしてやがては、それを確信ないしは信念へと変えていったのであった。(『佐佐木幸綱の世界5』近代短歌論・茂吉と子規の写生)
北原白秋は、葛飾北斎の鋭い造型感覚を短歌に応用し、部分を拡大描写する手法でシュールな情感を獲得した。北斎の造形感覚が現われている『雲母集』の歌の例はいくつもあるが、次に一首をあげておく。
 城ヶ島さつとひろげし投網(なげあみ)のなかに大日(だいにち)くるめきにけり
絵画手法の短歌への応用は、アララギ流写生の批判という形をとったにせよ、モダニズム短歌や前衛短歌において前進した。そこでは映画の手法も援用された。即ち、自然の断面を切り取るだけでは作者の思想なり情緒が十分に反映できない時には、自然の解体と再構成を目論むキュビズムやシュールリアリズムを応用した。取合せ・二物衝撃の効果は、もともと俳諧にあったものだが、映画の世界に取り入れられモンタージュやコラージュの技法として普及した。
現代短歌では、写実に関する思いを高野公彦が次のように述べている。(『地球時間の瞑想』)
「実景に言葉を与へ、その蔭に身を沈めることが写実である。それは自己を相対化する行為であり、一種の自己放下といってもよい。抽象といふ行為がつねに独善といふ自家中毒症の危険を秘めてゐるのに比べ、写実にはその症候はない。しかし写実には別のおとし穴がある。自己放下と自己喪失との履き違へによる作品の平板化である。すぐれた歌はたぶん、自我意識と自己放下との緊張の間にしか生れない。」
これは、先の「自然詠の定義」であげた菱川善夫の意見に対して、歌人の立場からひと
つの解答を与えたものと言えよう。