知の詩情(19/21)
固有名詞については、小池光が専門にした物理・数学を含む科学分野の歌に、特徴が現れる。前出の例以外にも、
かぐはしきはつなつの百合 水の辺(へ)に咲く盲目の数学者ひとり
『廃駅』
Big Bang 以後百五十億年 うつしみの舌まるめたり桜桃のため
『日々の思い出』
簡潔にS=klogW と刻むのみルードヴィッヒ・ボルツマンの墓
『静物』
苔のうへに表面張力かがやきて秘蹟のしづくの玉あらはれつ
『滴滴集』
奈良の代に渡来しきたる掛け算の九九をおもへば桃の花にほふ
『時のめぐりに』
さらに哲学、特に論理学にも関心を寄せた。
娯楽としてよむヘーゲルのあればとて尻のポッケの『小論理学』
『滴滴集』
歌集『草の庭』に、ウィットゲンシュタインと題する一連二十一首があり、言語機能と事実の関係について詠んでいる。理屈を嫌った正岡子規の想像外であった。以下のような例は、読者が納得して感心することに賭けている。知の詩情の究極の実験であった。
要素命題の真理可能性はとりもなほさず事態の真理可能性なるべしやいな
『草の庭』
完全な恣意性をもて文法の諸規則がはじめてその意味を規定す
『草の庭』
言語自身が経験的事実そしてまた超越論的機能たらざるべからず
『草の庭』