天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌と「あはれ」(3/13)

 次は、紀貫之著の土佐日記(935年)について。ここで文献上はじめて「もののあはれ」が使用された、らしい。大津から浦戸を目指して船を漕ぎ出す場面で、船出する人々と送り出す人々との間で、歌を詠み合うなどして別れを惜しんでいるのだが、その情趣を解さない船頭がいたのだ。そこで今から乗り込む船の船頭について、それを貫之は次のように描写した。
「・・・楫(かぢ)取りもののあはれも知らで、おのれし酒を食らひつれば、早く往(い)なむとて、
「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乗りなむとす。」
 源氏物語(1008年)は、「あはれ」の文学であった。江戸時代、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』において、「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書あつめて、よむ人を、深く感ぜしめむと作れる物」と結論づけた。ちなみに、源氏物語には「あはれ」は、944か所に現れる。また源氏物語中の歌は795首あり、その内「あはれ」を入れた歌は、25首(3.1%)ある。後拾遺和歌集(1086年)以降の和歌集に影響を与えた。なお、更級日記(1059年)は、源氏物語について最も早い時期から言及していた。
 次は西行山家集 (1178年)について。西行は、和歌を詠むにあたって、「あはれ」を多用した。全1728首(返歌含む)の内、「あはれ」を入れた歌は、90首(返歌含む)(5.2%)ある。この傾向は、八代集最後の勅撰和歌集新古今和歌集(1205年、以下では新古今集と略記)にも如実に見られる。これは最後の勅撰和歌集であるが、源氏物語の影響が大きい。藤原俊成の〈源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり〉は有名。俊成は古歌や王朝物語の情趣を大胆に導入する新技法(本歌取,物語取)を開発した。
 新古今集には、1979首の歌が収められているが、その内、「あはれ」を含む歌数は、54首(2.7%)ある。なかでも西行の歌が最も多く、94首入集、内「あはれ」は8首に見られる(8.5%)。これを契機に短歌に「あはれ」が定着・普及したと言えよう。
 新古今集にとられた西行の「あはれ」の歌全8首を以下にあげる。
  あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原
  心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕ぐれ 
  都にて月をあはれと思ひしは數にもあらぬすさびなりけり 
  あはれとて人の心のなさけあれな數ならにはよらぬなげきを 
  物思ひて眺むる頃の月の色にいかばかりなるあはれ添ふらむ 
  あはれとてとふ人のなどかなかるらむもの思ふ宿の荻の上風 
  山深くさこそ心は通ふとも住まであはれを知らむものかは 
  たれ住みてあはれ知るらむ山里の雨降りすさぶ夕暮の空  
初句に「あはれ」のある歌は3首あるが、「あはれ」で終わる歌は一首も無い。また山家集には「あはれあはれ(6音)」としている歌に次の三首があるものの、新古今集には入集していない。
  いつかわれこの世の空を隔たらむあはれあはれと月を思ひて       羇旅歌
  かきみだる心やすめのことぐさはあはれあはれとなげくばかりぞ      戀歌
  あはれあはれ此世はよしやさもあらばあれこん世もかくや苦しかるべき   戀歌
三首目では、「あはれあはれ」を省いても意味は通じる感動詞だが、他では助詞「と」で受けているので省くわけにいかない。
 ちなみに万葉集古今集源氏物語の和歌、新古今集などでは、一首の中に「あはれ」は一度だけ使用されている。そこから推察すると、「あはれあはれ」を和歌に使用したのは、西行が最初と思われる。現代になると、一首の中に「あはれあはれ」とは別に、複数の場所に「あはれ」が現れるようになる。後の塚本邦雄岡井隆の例を参照。

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新古今和歌集岩波文庫