天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌と「あはれ」(4/13)

近現代の短歌と「あはれ」
 「もののあはれ」や「あはれ」の感情を表現することは、王朝文藝の主題であり、殊にも和歌ではいくつものレトリックが編み出された。「あはれ」という言葉を直に使用する場合は、芸がなさすぎるようでもあり、実態を調べてみたくなった。正岡子規の短歌革新を契機に「あはれ」の直接表現は減少傾向にあるのでは、と思ったのだが、さにあらず。現代短歌でも多用されていることが調査結果で分かった。

正岡子規の場合
『子規歌集』(土屋文明編)には、短歌840首、旋頭歌6首 計846首があるが、内「あはれ」を含んだ歌は、以下の11首(1.3%)である。
  誰も誰もつれなかりける世の中に死なばか人のあはれとは見む
  奈良の町に老いたる鹿のあはれかな恋にはうとく豆腐糟喰ひに来る
  百年(ももとせ)の命にかふるねぎ事をあはれきこしめせ八百万(やほよろづ)の神

  うぶすなの神の宮居にたてまつる八兵衛が桜あはれ八重(やへ)なり
  火串(ほぐし)さして人居らぬさまに見ゆるかなあはれ鹿(か)の子のよらんとぞする

  鎌倉のいくさの君も惜しけれど金槐集の歌の主あはれ
  起きて泣かば心やる方もありぬべし伏して泣く身をあはれと思へ
  親牛の乳をしぼらんと朝行けば餓(う)ゑて人呼ぶ牛の子あはれ
  三(み)とせ臥(ふ)す我にたぐへてくろがねの人屋(ひとや)にこもる君をあはれむ
  たらちねの母の車をとりひかひ千里(せんり)も行かん岩手の子あはれ
  我が庭の三(み)もと松伐りあはれ深き千草(ちぐさ)の花に日の照るを見ん
一首のなかで「あはれ」が現れている場所は、初句には無く、中句に5首、結句に6首
である。
 『歌よみに与ふる書』において、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と批判した。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。
 他方、万葉集については、「萬葉集は歌集の王なり。其歌の眞摯に且つ高古なるは其特色にして、到底古今集以下の無趣味無趣向なる歌と比すべくもあらず。萬葉中の平凡なる歌といへども之を他の歌集插(はさ)めば自ら品格高くして光彩を發するを見る。」と高く評価した。
 「あはれ」の使用頻度(1.3%)は、万葉集の場合(0.11%)に比べて、はるかに高いが、これは新古今集わけても西行の影響があると言わざるを得ない。感激、感動を率直に詠んだ例を学ぶことができたからである。

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『子規歌集』(土屋文明編)岩波文庫