短歌と「あはれ」(11/13)
■小池 光の場合
小池 光も、斎藤茂吉をよく読み込んで様々な面から短歌作品を鑑賞している。著書の『茂吉を読む』(五柳書院)が一例である。この書で取り上げた茂吉の「あはれ」歌は、次のようなもので、9首ある。*印のところに小池のコメントや茂吉の自注を要約しておく。
しづかなる砂地(すなち)あはれめりひたぶるに大き石むれてあらき川原に
『あらたま』
*茂吉の自注「一方に大きな石が盤踞し、一方に急湍があるかとおもへば、石のかげなどには、白く乾いた砂地などがある。それが何ともいへぬしづかなものである。そこで
〈あはれ〉といった。」「石むれて」という擬人表現が「あはれ」を呼ぶひとすじの伏線になっている。
こゑあげてひとりをさなごの遊ぶ聞けばこの世のものははやあはれなり
『石泉』
*「ひとりをさなごの遊ぶ聞けば」と八六にしたデフォルメが「あはれ」をひきたてた。
よるの汽車名寄(なよろ)をすぎてひむがしの空黄になるはあはれなりけり
『石泉』
*黄濁したような夜明けの空を車窓にみることは、いかにも「あはれ」なのである。
この歌の「黄」に黄色人種の「黄」をわずかに重ねて感受すれば、「あはれ」はさらに深まろう。
波だちて瀬々(せぜ)のつづける山がはに砂(すな)たむろせる浅(あさ)岸あはれ
『石泉』
*ここの「あはれ」は、悲嘆、詠嘆のニュアンスは少なく、語源どおり、ああ、と嘆声を発している。ほとんど、すてき!くらいの感じ。
とげとげしき心おとろへてわが妻と親しみゆくもあはれなりけり
『白桃』
*仲が悪い夫婦が仲良くなってゆくことがあわれなのだ。従うほかなき自然過程である。
あはれあはれ電(でん)のごとくにひらめきてわが子等すらをにくむことあり
『白桃』
青葉くらきその下かげのあはれさは「女囚携帯乳児墓」
『暁紅』
*茂吉の『作歌四十年』から。「・・この墓石の、「女囚携帯乳児墓(ぢよしうけいたいいゆうじのはか)」という文句が簡潔で哀深いのでその侭取って用いた。・・」
山なかに雉子(きぎす)が啼きて行(ゆく)春の曇(くもり)のふるふ晝つ方あはれ
『寒雲』
*「曇のふるふ」という表現が、「あはれ」を呼んだと思われる。
あはれ豊けき露伴先生のみそばにて支邦女(しなぢよ)詩人に執着をする
『寒雲』
*大好きな支那の女性の話題を、大好きな露伴先生と交わしてこれ以上のよろこびはない。