天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

芭蕉開眼の前後(1/5)

はじめに
 芭蕉が精進した俳諧は、周知のように連歌形式から出発している。複数の人達(連衆)が、長句と短句を交互に詠み合って、句の内容の展開を楽しむ文藝である。初めの長句(発句)を作る際には、主人や開催地への挨拶句とする場合もあるし、たびたび同じ場所や連衆で開催する際には、古典(物語、和歌、漢籍など)、故事や謡曲に掛けた或いは引用した題材にすることも多い。ここでは、これを広義の本歌取りと呼ぶことにする。
 俳諧の流れとしては、これも周知のように、貞門派「詞付(ことばづけ、縁語・掛詞による付け方)」、談林派「心付(こころづけ、全体的な意味や風情に応じた付け方)」、蕉風「匂付(においづけ、余情に応じる付け方)」とあり、明治に発句が俳句として独立し、俳句という文芸になった。もともと発句は、その性格・約束(五七五の長句であること、当座の季を重んじ、一句で意味が完結するように切れ字を入れること、長(たけ)高く幽玄であること)から、独立性が高かったのだが、従来の詠み方として、本歌取り法(引用法)により俳味をだす作法が主流であった。芭蕉の開眼は、そこから脱して自分の五感を主体にした現実世界を記述する作法への転換である。
 本文では、芭蕉におけるこの変化の過程(本歌取り法(引用法)の推移)を具体的に見てゆくことにする。なお分析の対象としたのは、堀信夫監修『芭蕉全句』小学館である。

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堀信夫監修『芭蕉全句』(小学館