天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌と詞書

 和歌、連歌、短歌、俳諧連歌連句)、発句、俳句といった経過をたどって、短詩型が独立した。当然、完結した文芸であることを前提にしている。詩型の特徴・約束事をふまえた解釈が必要になるにしても、作者名・境遇や作られた背景を知っても評価が変化しないことが要請される。歌の内容だけで鑑賞する場合と背景を踏まえて鑑賞する場合とがある。前者では、時代背景や作者の境遇にまで敷衍すると間違いを起こす危険がある。また後者では、作品独自から離れた余計な評価がプラスされる危険がある。
 正岡子規は、作品が作られた背景が評価に及ぼす功罪について、どこまで考えていたのだろうか。
  瓶にさす藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり
この歌は、落合直文が既に発表していた「文机に小瓶をのせて見たれども猶たけながし白ふぢの花」という歌を、子規の視線で作り直したものであった。子規自身は、彼の境涯(病床六尺)を当然読者は知って解釈されるものと思っていたであろうか?
 短歌が作られた背景を説明するのに、万葉集のいにしえから詞書が使われた。後世にとっては、貴重な記録にもなっているので、はなはだ有用だが、短詩型の独立性を損なう場合が出てくる。詞書や後注を利用して、一首で表現しきれない情緒を、説明・補強する場合である。詞書を多用した岡井隆と違い、塚本邦雄は詞書をほとんど使用しなかった。作者名・作者の境遇を知らなくとも詞書がなくても単独で鑑賞できる作品。これが塚本邦雄が目指した短詩型の極北であった。よって塚本は、子規の「瓶にさす藤」の歌は、つまらないとして切り捨てた。なお、岡井の場合、詞書を多用しているが、これは短歌との新しいコラボレーションの試みであり、鑑賞と評価はこれからである。 

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藤の花房(藤棚)