天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

蕪村の画賛句(1/11)

はじめに
 与謝蕪村は、俳画創始者とされるが、俳画が世の中に広まることはなかった。現代においても俳句は隆盛を極めているが、俳画は話題になることさえ稀である。蕪村の俳句や絵画は高く評価されもてはやされるのだが。本論では、その要因を考えてみたい。
 簡単に蕪村の経歴を見ておこう。蕪村は、摂津国毛馬(けま)村(今の大阪市都島区)に生まれた。母は、丹後から出て摂津の村長か庄屋に奉公していたようだ。幼少・少年期は、庶子ながら何不自由なく育てられたのだが、はやくに両親と家産を失った。母は丹後に返されたか、あるいは死んだ。
 江戸に出て俳人早野巴人(夜半亭宋阿)に入門。諸国放浪後、京都に定住、のち夜半亭2世を名のった。浪漫的、絵画的な俳風を示し、「春風馬堤曲」などの新体の詩も創作、芭蕉を崇拝して中興俳諧の中心的役割を果たした。絵画では、池大雅とともに日本南画の大成者とされる。国宝(十便十宜図画帖、夜色楼台図など)や重要文化財に指定された南宋画も多い。
 さて、俳画とは、俳句を賛した簡略な絵のことで、その成り立ちには、次のようなケースがある。
   ➀自分の書いた画に自分で俳句をつける。(自画賛、自画自賛
   ➁自分の作った句に自分で画を描く。(自画賛、自画自賛
   ➂他人の俳句に画を描く。
   ④他人の書いた画に俳句を作る。(例: 応挙の画に蕪村が句をつけた。)
   ⑤複数人で描いた合作画に俳句をつくる。(例: 応挙と蕪村で描いた戯画に

    蕪村が句をつけた。)
蕪村に関わる俳画もこれらの場合があてはまる。ところが、このような場合に出て来る蕪村の俳句には、高い評価の作品がない。何故であろうか。
 蕪村関連の俳画を、ほぼ年代順に見ていこう。

 俳句の内容に関しては、藤田真一・清登典子編『蕪村全句集』(おうふう)に依り、絵についてはWEBを参照した。

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『蕪村全句集』(おうふう)