天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

喩に沈む季節(3/8)

3.季語と季節感のズレ
 平安朝時代から比べると、明治以降、季語の種類が圧倒的に増えた。例えばラグビー、受難節。季語登録が間に合わないくらいである。現代歳時記の季語に登録されていない季節の表現はいくらでもある。
  ノースリーブの肩より垂らすさみしさよ南天に赤き月を吐きたり

                           梅内美華子
  気球しずかに老子をのせてわたりつつセイタカアワダチソウとあけぼの

                            渡辺松男
  シヴァ神の狂気を愛すまたたけるブーゲンビリアの影に坐った

                            江戸 雪
 映画やビデオなど映像技術の発達で、疑似体験ができることも現代の特徴。交通機関の普及により、短時間に季節の違う地域を行き来できることで、日本の季節を意識する場合もある。
 現代は季語が季節感と合わない。バイオテクノロジーのおかげでトマト、苺、薔薇などハウス栽培の野菜や果物や花は、季節を問わず店先や食卓にでている。動物園、水族館などのように、獣、魚などが年中見られる施設があちこちの都市にある。外来語や学術用語の浸透に伴い、季語がカタカナ表記されることも増えた。植物や動物の季語をカタカナで書くと学術用語の雰囲気が立ち込めて、季節感が薄れてくる。
 エアコン、街灯の普及など住環境の近代化により季節感を失った季語もある。例えば、裸、月あるいは月光、(室内の)プール、香水。また、容易には体験出来ない、見られなくなった事象もある。例えば、曲水、野火。こうした季語に季節感の表出を頼らざるを得ない現状は、日本の短詩形文学が仮想現実に深入りしている証左といえよう。

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ブーゲンビリア