喩に沈む季節(6/8)
三番目に、特に強調しておきたいことだが、季語を比喩表現の中で使っている歌では季節感が薄れる。現代短歌では、比喩表現の中に季語が多く現れる。作者並びに読者は、季節をどう感じてほしいかあるいは鑑賞するか、が課題である。比喩表現における季語は、短歌における季節の仮想現実を高度に押し進めたものではないか。
今夜わたしは桔梗の声で話すからキャッチホンは無視してください
江戸 雪
世界病む朝のあかるきトイレにて虹、青葉、愚痴その他嘔吐す
荻原祐幸
との曇りなに悲しうてわればかりものいふ鯔(ボラ)にとり囲まるる
坂井修一
退院の日をつぶやけば儚くてあなたの目から抜け出す蛍
加藤治郎
新月の匂いをさせて離婚したばかりの登喜(とき)ちゃんバーにあらわる
千葉 聡
新古今集には、序詞、掛詞、縁語が大変多いが季語の比喩表現もある。花を雪と見なす、逆に雪を花と見なすという類である。しかし季節がテーマの和歌では、これらの比喩とは別に季節を明示する言葉が補足されていたり、明確に部立で季節を区分している。例えば、
鶯のなみだのつららうちとけてふる巣ながらや春を知るらむ
惟明親王(春歌)
志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づるありあけの月
藤原家継(冬歌)
季節がテーマではない和歌では、更に比喩表現が増えるが、比喩表現の豊かさや頻度を比較すれば、現代短歌が格段に上である。