天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句を詞書とする短歌(6/9)

 歌集『X――述懐スル私』(2010年刊)「夏越なごめど」一連から。学者の言葉や俳諧を詞書としている。以下では、俳諧の場合を取りあげる。大変難しいシンフォニーである。
  市中(いちなか)は物のにほひや夏の月 (凡兆)
  はいつて来る奴の死角につねに立つ訓練がつづく午後いつぱいを
凡兆の発句は、分かり易い。夏の夕方、市中のそこここで夕食の支度やそのための食材を売る匂いがしていて、空には月が浮んでいる。片や短歌の方は、多分部屋か町の一角に入ってくる敵の目にはつかない場所(死角)に、常に立つような訓練を午後一杯している、と詠んでいる。これら二つが合わさるとどういう情景を想像するか?戦後なおテロ活動が絶えないアフガニスタンイラクの都市を思う。夏の月が出ている空の下、バザールでは食べ物の匂いが漂ってくる。だが、いつ敵の標的にされるか分からない。警備の立場にせよ、逆にテロリストの立場にせよ、敵の位置を想定して敵から見えない死角に立つことが戦闘に勝つために必須なのだ。
  あつしあつしと門(かど)かどの声  (芭蕉
  植ゑられるものを臓器と呼びたくはない磯波(いそなみ)の洗ふ血の藻の
岡井の歌は、臓器移植をテーマにしている。人工臓器もあろうが、磯波に洗われる血の色の海藻が臓器をメージする。上句は、外から移植するものは臓器と呼びたくない、という岡井の思いであろう。世界中で流行している臓器移植の状況に対する反感である。ここで芭蕉の句「あつしあつし」に繋がる。暑い暑いと言いながら町家の門口で夕涼みしている情景を、過熱気味の臓器移植に対する思いに転換したのである。

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『X――述懐スル私』(短歌新聞社