天地(あめつち)は動くか (5/7)
2011年の短歌甲子園には、震災復興の願いがこめられていた。作品はみな三行書きにしてある。石川啄木『一握の砂』の表記に倣ったようだ。
東北の空に
天使はうずくまる
「翼があっても奇跡は起きない」
気仙沼高・山内夏帆
奪われた 二万人から 託された
今日の笑顔で
明日を照らそう
宮城一高・山本真理
新仮名・口語短歌の場合の多行書きでは、短歌臭が消えて人々に馴染みやすくなる。
東日本大震災の短歌で目立った大きな特徴は、長谷川櫂『震災歌集』に見られる政治や企業に対するストレートな批判であった。落首や狂歌でさえ憚った現実の固有名を出している。
顔見せぬ菅宰相はかなしけれ一億二千のみなし子
原子炉が火を噴き灰を散らすともいまだ現れず東電社長
ところで、絵や伝聞から歌を詠むことは、古典和歌の時代にもあった。近代以降の短歌になっても映画やテレビの映像に材をとることは許されている。言うまでもないが、こうした場合の危険性は、話す人や撮影する側の意図に影響されることである。映像だけならまだしもナレーションから詠むのは伝聞から詠むのと同じ危険をはらむ。やらせや虚構に加担する恐れである。窪田空穂の場合はどうであったか。例を次に二首あげておく。詞書に「見るにもまさりて聞くことの悲し。その片はしを」とある。
その水のいささを賜へむくいにはわが命もといひ寄る処女(をとめ)
一つ結飯(むすび)割りてやりたる若者と離れがたくもなりし人妻
かなりスキャンダラスな視点である。伝聞から詠む場合、こうした傾向が現れるようだ。
東日本大震災の折にも、テレビ映像などに刺激されて多くの歌が詠まれた。内容からそれと判るものとそうでないものがある。「短歌」2011年6月号から。
熱出でし子の背撫でゐる母の背を撫でにゆきたし夜の避難所に
栗木京子
口に鼻に泥の詰まりし遺体ありその気高さは人を哭(な)かしむ
高野公彦
長谷川櫂は被災者ではなく、『震災歌集』の作品の多くがテレビの映像や報道を見ての短歌であったが、そのことについて、彼は次のように語っている。
「現地の人は詠んでいいけれど、それ以外は詩歌をつくるべきではないという人もいる。
そんなことはない。想像力を無視している。離れているからこそ詠めることもある。」
(東日本大震災リサーチ「東日本大震災を詠む(2011年6月16日)」)。