天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句は取合せ(1/10)

はじめに
 松尾芭蕉は、俳句の骨法を「発句は畢竟取合物とおもひ侍るべし。二ツ取合て、よくとりはやすを上手と云也」(許六の記録)と、簡潔に要約した。つまり俳句とは、二つのものを取り合せて作る文藝という。もともと俳諧連歌から派生したものなので、取合せには中国や日本の古典さらには謡曲などを踏まえる本歌取りする手法が主流を占めていた。この手法を離れて、現実を重視する態度に転換したのが、芭蕉の開眼であった。
 取合せを少し具体的に言うと、 季語に固執すると発想が貧困になるので、余所(よそ)すなわち季語の埒外に目を向けることによって多くの発想を得る事が出来る。つまり季題・季語と余所のものとの散り合せによる発想が、俳句の基本的な方法なのである。許六による具体例は次のようなもの。
     木がくれて茶つみもきくやほととぎす  芭蕉
茶つみとほととぎすの取合せになっているが、「木がくれて」ととりはやしたので名句になった。
 明治になって正岡子規は、これを配合と呼んだ。なお、「取合せ」俳句の分析法は、途中に切れの入らない一句一章の俳句(他の事物と取り合わせずに、対象となる季語だけに意識を集中させ、その状態や動作を詠んだもの(一物仕立て))にも適用できる。
 本論では、「取合せ」の詳細を、分析する方法から始め、芭蕉と蕪村の五月雨の句と最近の結社誌からの作品例につき見ていくことにしたい。また、俳句を評価する際に、一句独立の作品として鑑賞する場合と、紀行文の中で鑑賞する場合とで異なる点に留意したい。
 分析の多数の例を見ることによって、俳句作法の奥義を感得できそうである。

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茶畑