平安・鎌倉期の僧侶歌人(10/17)
西行(元永元年(1118年)~文治6年(1190年))
保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)頃に奥羽地方へ旅行し、久安(1149年)前後に高野山に入る。 仁安3年(1168年)に中国四国へ旅した。この時、讃岐国の善通寺でしばらく庵を結んだらしい。後に高野山に戻り、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行った。伊勢国に数年住まった後、河内国の弘川寺に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。
歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。
[生活感]
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき 続後拾遺集
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里 新古今集
なげけとて月やはものを思はするかこちがほなる我が涙かな 千載集
古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮 新古今集
ここをまた我住み憂くて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ 山家集
[旅の感懐]
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山 新古今集
道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ 新古今集
心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮 新古今集
*有名な「三夕の和歌」の一首。他に定家、寂蓮の二首あり。
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな 新古今集
つねよりも心ぼそくぞ思ほゆる旅の空にて年の暮れぬる 山家集
[人生観]
なにごとも変はりのみゆく世の中におなじかげにてすめる月かな 続拾遺集
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ 続古今集
あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき