天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

松瀬青々(1/2)

 どこの世界にも傍から見て不運な人はいるもの。俳句の世界では、松瀬青々という俳人がそのように見える。正岡子規高浜虚子が関東で活躍した同時期に関西で同等の活躍をした。大坂朝日新聞において、「朝日俳壇」を起して選者になっているし、東の「ホトトギス」に対して、西で「倦鳥」を結成し、俳句の興隆に尽した。ただし、松瀬青々は正岡子規の弟子であり、河東碧梧桐と違って子規の考え方を肯定した。
 にも関わらず、アンソロジーには漏れているのだ。例えば、平井照敏編『現代の俳句』。あるいは、国文学「俳句ハンドブック」にも全く触れていない。ただし、俳句文学史には、かろうじて顔を出す。例えば、『評解・名句辞典』(創拓社)。簡単な履歴を次にあげておく。

・ 明治2年4月4日大阪市東区大川町に生まれる。
・ 明治28年、得意の数学を生かして第一銀行に入社。
・ 明治32年の4月、青々は初めて子規に会う。そして同9月に、
 改めて上京し、「ホトトギス」の編集にたずさわる。
・ 明治33年5月、「ホトトギス」の編集をあきらめて帰阪した青々は、
 朝日新聞社に入社するが、記者ではない。会計課の勤務。朝日俳壇を
 設立し選者を担当した。
・ 明治41年には俳句結社を設立、関西のホトトギス派の拠点にすると
 ともに、本格的な門人の育成を始める。
・ 大正十四(一九二五)年には主宰する句誌「宝船」を「倦鳥」と改め、
 没するまで編集し、西村白雲卿、塚本虚名、武定巨石、古屋秀雄らの
 俊英を育てた。
・ 昭和12(一九二七)年1月、高師浜高石市)にあった自宅で病死する。
 享年六十八歳。

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松瀬青々 (webから)