北原白秋の新生(8/9)
白秋と茂吉
白秋と茂吉は相互に影響し合った。二人とも『梁塵秘抄』に学んだ点も共通している。茂吉の『赤光』発表当時、アララギ内部からは『赤光』所収の歌のかなりの部分は、杢太郎や白秋の模倣または影響であることを指弾する声が起こっていた。白秋の『桐の花』所収の歌は、明治四十一年~明治四十五年間に作られ発表されたものなので、歌集としての『桐の花』が刊行される前からよく知られていたらしい。両者の類似例をあげると、
草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
『桐の花』
くれなゐの鉛筆きりてたまゆらは慎ましきかなわれのこころの
『赤光』
ひいやりと剃刀(かみそり)ひとつ落ちてあり鶏頭(けいとう)の花黄なる庭さき
『桐の花』
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり
『赤光』
また茂吉の『あらたま』大正三年作の「三崎行」六首には、次のような歌がある。
ひたぶるに河豚はふくれて水のうへありのままなる命死にゐる
かうかうと西吹(にしふ)きあげて海雀あなたふと空に澄みゐて飛ばず
白秋が三崎に滞在していた時期、茂吉との間で書簡のやりとりはあったので、興味から三崎に遊んだのであろうか。茂吉夫妻に古泉千樫が加わっていた。内にこもるような茂吉固有の韻律ながら、『雲母集』の影響が濃厚である。しかし茂吉が門弟を指導する時には、
『桐の花』は日本が自慢していいと思ふ。『雲母集』で飛躍したが、
『雲母集』にはくづがある。白秋の『桐の花』、長塚節の歌集、石川啄木
の歌集を読め。
と話したという。