心を詠む(4/20)
立ちかへりあはれとぞ思ふよそにても人に心を沖つ白波
*掛詞で成り立っている。立ちかへり: 波が寄せては返す意を掛ける。 おきつ: 「置きつ」「沖つ」の掛詞。「繰り返しあの人を恋しく思うよ。遠くからあの人に心を寄せてしまった、寄せては返す沖の白波のように。」
色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける
やへむぐら心のうちに深ければ花見にゆかむいでたちもせず
後撰集・紀 貫之
*「やへむぐら」は、幾重にも生い茂っているつる草だが、この歌においては暗喩。花見にゆく身支度もしない、ほどに心に深い鬱屈があるのだろう。
夢にだにまだ見えなくに恋しきはいつにならへる心なるらむ
*「まだ夢でさえ逢えないのに恋しいのは、いつ私の心があの人に馴れ親しんだというのだろう。」
なき名ぞと人にはいひて有りぬべし心のとはばいかが答へむ
後撰集・読人しらず
*「噂は事実無根であると、人に対しては言い逃れもできましょう。しかし自分の心が問うたら、何と答えればよいのでしょう。」
詞書からすると、親が存命の女のもとにひそかに通い始めた男が、「しばらくは人に知られないようにしよう」と言ったので、女がこれに答えた歌。
月かげはおなじひかりの秋の夜をわきて見ゆるは心なりけり
後撰集・読人しらず
思ひつつ経にける年をしるべにてなれぬるものは心なりけり
後撰集・読人しらず
*「慕いながら経過した年月を親しい相手として、あの人に馴れ親しんだのは心だけなのだった。」
我が身にもあらぬ我が身の悲しきは心も異(こと)になりやしにけむ
後撰集・大輔
*思いがけぬ境遇となった身ゆえに、心も思うままにはならないのだと弁解した。
古今集のレトリックには、掛詞が多いことはよく知られている。一首目の「沖」は「置」と掛けている。心とはどういうものかを、以下の歌のいくつかで説明している。小野小町は、心に花が咲くものととらえている。
『後撰(和歌)集』は、村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。歌物語の影響からか、詞書が長文化した。貴人の日常生活に基づいた「褻(け)の歌」が多いことも特色である。なお高度な暗喩がよくつかわれてことも分かる。