天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

出でよ世紀の西行(4/6)

 西行の五十歳代は、平清盛の全盛時代と一致している。五十歳になった西行は、四国行脚に発つ。讃岐に流刑されていた崇徳院が、四年前に四十六歳で崩御されていた。生前も西行は慰めの歌を度々送っていたが、院の行状には批判的であった。讃岐に来たのは単に御陵に詣でるためだけではなく、空海の出生地でもあり、やるせない心を鎮めるため、空海の思想に浸りたかったのではないか。

  あはれなり同じ野山に立てる木のかかるしるしの契りありけり

  岩に堰く閼伽井の水のわりなきに心すめとも宿る月かな

  ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならんとすらん

  くもりなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶間なりける

 これらの歌は、西行の折々の思いを素直に詠って濁り・淀み・棘がない。ただ、こうした心境の歌は、彼の年代を問わず出てくるので、そして歌の題材もさして変わらないので、読者は、またかという印象を持つ。彼の生涯の歌を鑑賞する価値は、澄んでゆく境地を辿ることに有るかも知れない。

 塚本の五十代は、評論『定型幻視論』刊行からはじまり、茂吉秀歌の評釈開始、俳句の実作、秀句鑑賞と文芸の幅を旺盛に拡げる。そして「詩歌黄昏」という終生の主題にそって詠嘆・述志を歌に込める。

  すでにして詩歌黄昏くれなゐのかりがねぞわがこころをわたる 

  あはれ知命の命知らざれば束の間の秋銀箔のごとく満ちたり

  歌はずば言葉ほろびむみじか夜の光に神の紺のおもかげ

  秋風の曽々木の海に背を向けてわれは青天よりの落武者

 西行の六十代は、平家が滅亡し源氏の治世に移行する戦の絶えざる時代であった。四国、中国を遍歴して帰った彼は、伊勢の二見浦に草庵を結ぶ。権勢との繋がりが切れていた訳ではなく、東大寺勧進を請け負って、六十九にして再び陸奥国平泉に赴く。途中、源頼朝にも会っている。この旅で、八百十年以上経った今でも愛唱される名歌のいくつかが生まれた。

  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思かな

  年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山

  心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ

この年齢で奥州までを、大方は徒歩で往復する体力があったわけだが、歌の内容は、年をとっても悟りとはほど遠く、身も心もあてどないという思いが色濃くでている。出家して以来深めた心境が、これらの歌に極まった。和歌に対する西行のとり組み方は、栂尾明恵上人伝に、「一首詠み出でては一躰の尊像を造る思ひをなす、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふに同じ」と紹介されている。但し、西行の本当の言葉かどうか疑問という。

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奥吉野の西行