天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

わが歌集・平成二十一年「水行」

  警杖をつきて玄関前に立つ横浜水上警察署

  運上所の役目ひきつぎ灯ともせり昼なほ暗き横浜税関

  水行の白衣に透ける赤き肌経唱ふれば湯気をたてたり

 

     峠   八首

  箱根路を『金槐和歌集』たづさへてわが越えくれば初島の見ゆ

  丈ひくき竹薮原の山頂に道ありて歌碑実朝の歌

  白髪の老婆がふたりめぐり見る樹齢二千年の瘤多き楠

  希典の筆になるらし「忠魂碑」横にさびたる砲弾ひとつ

  もし熊と出会はば投げむ 自販機のペットボトルの水を買ひ足す

  砲撃の音にも狎れて草を食むヤビツ峠の鹿のつがひは

  競輪の練習として行き帰るヤビツ峠の九十九折道

  さはがしくカケス啼くなる峠路の草むらかげに咲く鳥兜

 

     横須賀米軍基地見学   七首

  正面に横須賀米軍基地を見て間借するかにわが自衛艦 

  若き日の呉、横須賀の思ひ出を言ひつつ並ぶ基地のゲートに

  おほまかにバッグチェックし皆通す基地のゲートの迷彩服は

  実戦の兵士はいづこ原子力空母めぐれば平和なる顔 

  一箱のピザぶらさげて帰りくる軍港見学終へし老人

  半数は老人なりき晩秋の横須賀米軍基地の見学

  丈たかきクレーンの立てる下の辺に核息づける「ジョージ・ワシントン

 

  大き魚呑みこみぬらん青鷺のおもく川面を飛びたちにけり

 

     山、谷   八首

  美しき駅名はあり風祭、入生田、湯本、塔ノ沢など

  股引の足にしみいる冷気はや箱根の山の冬を告げたり

  ゆくほどに色濃くなれる紅葉の谷に声あぐゴンドラの客

  朝鮮語を話す集団かしましく大涌谷に写真撮りたり

  ふつふつと硫気にたぎる熱水の溜りにひたす一籠の卵

  野あざみの紫枯れず残りたり芦ノ湖キャンプ村の静かさ

  宿り木のやどりし跡の瘤ならむ崖に根付ける太きタブの樹

  あたたかき甘酒すする山頂はもみぢ散り敷き年を逝かしむ

 

  ひとり下りる極楽寺駅乗客がこれから向かふトンネルの闇

 

     山、谷(続)   八首

  ハイカーのバッグに吊れる鈴鳴ればいらだちにけり錦秋の熊

  なにものか断崖の上をあゆむらし大石小石谷に落ちくる

  山を背にあぐらかきたる明王は金色光のまなこなりけり

  常日頃足鍛へねば行きがたしすぐ目の前の大山の峰

  貨車を引く電気機関車「桃太郎」ある日藤沢けふ八王子

  血の色に透けるもみぢに人妻のその後思へり身ごもりしとふ

  よもぎそば甘酒を待つしまらくを池に映れるもみぢ愛でたり

  高句麗をのがれし人の住みしとふ大磯の郷皇帝ダリア

 

  丹沢の山にいく夜か明かしけむバスに乗りくる二人髭面

  尼御前が悟りの歌を詠みしとふ底抜ノ井は水あふれたり

  肌黒き大統領の肖像を今日かかげたりホワイトハウス

  金色の光やどせる黒猫のまなこの前にたぢろぐ吾は

 

     浦、浜   八首

  うとうとと電車にねむり声を聞く熱海、函南、沼津、吉原

  かすみたる富士の裾野の稜線のうつくしければ涙ぐましも

  高浪をふせぐ手だての堤防はセイダカアワダチソウの群落

  田子の浦みなとを出でし船ひとつ光の海の沖に消えたり

  赤人の歌くちづさむ田子の浦雲に隠るる富士を惜しみて

  ひとところ赤むらさきの群落は浜に咲きたるおしろひの花

  ときをりに銀の鱗の腹かへす川のよどみの黒きかたまり

  ひと口を齧りて捨てしりんごなれ潮(うしほ)が洗ひ浜に色づく

 

  潜水の二羽のウミウがしばしして水際の鷺のまなかひに浮く 

  江ノ島イソヒヨドリの啼く聞けば子の失業の思ほゆるかも

  池の辺にカメラ構へてたたずめりしぶきをあぐる翡翠の朝

  餌もたぬわが近づけば背を向けてキンクロハジロみな去りゆけり

 

     和賀江嶋   五首

  人の住む気配無き窓あまた見ゆ逗子マリーナの椰子並木道

  実朝の壮挙嗤はれ朽ち果てし大き唐船を浜に思へり

  累々と石組はあり引き潮に姿あらはす和賀江嶋跡

  引き潮の浜に石組あらはるる見捨てられにし港なりけり

  くらぐらと水溜めをりて破れ板の小屋が隠せる八角の井戸

 

  ぬばたまの鴉があまた啼き騒ぐ青きテントの並ぶ木立に

 

     橋、運河   八首

  うす雲の師走の空の下にありビル林立のウォーターフロント

  風なくて白き翼を休めたり海辺に立てる風力発電

  絶え間なく物資運べるトラックにベイブリッジは震へやまざり

  ひたすらに見上ぐるばかり春秋を潮に晒せる橋脚の骨

  見上ぐれば目くるめきたり縦横に鉄つらねたる湾またぐ橋

  運河はやふくるるごとく水たたへ高速道路の下に息づく

  頭上にも高速道路は分岐して貨物積みたるトラックがゆく

  枯葦の運河想ひてくちづさむ「鶴見臨港鉄道」の歌

 

  江ノ電江ノ島駅に活けられし今朝あたらしき極楽鳥花

  稚魚むれて黒きかたまり湧く水の口に見えたる柿田川なり

  新学期やがて始まる校庭に楠の大樹の若葉あからむ

 

     心霊スポット   八首

  ありし日の巣鴨プリズンしのぶがに人影が立つ心霊スポット

  天皇に直結したる軍隊を野放しにせり統帥権

  すめろぎの願ひとたがふ結論を上奏しつつ慟哭したり

  ヘッドホン耳に当てたる東條が聞きてうなづく「デス・バイ・ハンギング」

  わが影を映す瀟洒な黒石に「竹久夢二を埋む」とありき

  墓ひとつ探して歩く雑司ケ谷墓地にかそけき落葉ふむ音

  死者の墓あばくがごとくさまよへば鴉は嗚呼と啼きにけるかも

  墓ひとつ探しあぐぬるまなかひに白きまぼろし巣鴨プリズン

 

  海つばめ岩場にとまり囀れる声まぎれなし春の潮騒

  冷蔵庫、武者人形も捨ててあり手入れとどかぬ森の小道に

  街川の浅き流れに水浴ぶる雀が一羽後から一羽

 

     桜前線   十首

  弘前さくら前線追ひかけて北上したり「はやて」の座席

  栗駒の高原の木々若葉せり雪雲のこるみちのくの空

  近づけば「津軽海峡冬景色」唄ひ出だせる記念碑はあり

  航海をやめて年経し岸壁の「八甲田丸」春雨に濡る

  傾ける壁に手をつき打電せしSOSも虚しかりけり

 あのあたり恐山かとたどり見る下北半島大間が港

  畦の辺に黄水仙咲く墓ありて電車がとまる大釈迦の駅

  みちのくの熱き心を板に彫る棟方志功オモダカの風

  見えざれば版木に顔を伏せて彫る和紙のこよりを鉢巻にして

  青森をみはらす墓地を購ひてゴッホの墓に似せて作りき

 

  動物園半世紀経て五世代のオランウータンの家系図はあり

  原生のくろまつ立てる森蔭に蝉の声きく真鶴岬

  カーテンを車窓にひきて女生徒は二次不等式をわが横に解く

  たまきはるいのちなりけり水あぐる幹ふとぶとと大地に根ざす

 

     梅雨の前   八首

  橋桁に鳩棲みつきて雛るかなしき声を恐れざらめや

  この先の幾年を生く山頂の楠の若葉が風に笑へり

  風かをる若葉のに美しき声にうたへるあの鳥は何

  鼻に水吸つてわが身に噴きかけて象のウメ子の朝がはじまる

  にごりたる大気の空に凝固せる夕日のしづく薔薇「黒真珠」

  じやがいものうすむらさきの花を見て酔ふかに飛べり紋白蝶は

  かけて来し幼児あやふし山門の階にまろびて泣きにけるかも

  しみ出づる水にそまるか断崖にうすむらさきのイワタバコ咲く

 

  イチローも松井も帽子胸に当てアメリカ国歌を面はゆく聞く

  墓石の重きをいとふわが妻は死後の出入りを想(おも)ひゐるらし

  蛍のひかり点れる指先を子はかなしみて母に見せたり

  青鳩の飛来を待てる照ケ崎西の海より霧の寄せくる

  満潮のしぶきが洗ふ礁にはしばしだにゐず青鳩の群

  鬱深き梅の青葉の下蔭に藤村夫妻の墓ならびたり

  砲撃の的たりしとふ烏帽子岩その姥島に波の寄る見ゆ

 

     水辺の再生   八首

  よしきりのしきりに啼けるよしはらは風吹くさまになびきたりけり

  啼き声はしきりにすれど見当たらぬ渡良瀬遊水地のよしきりは

  鉱毒をしづめむとして造られし啼くなる遊水地の原

  渡良瀬の水勢はやき濁り川開け放ちたる水門が見ゆ

  大いなる治水紀功碑篆刻の漢字ばかりが敷き詰めてあり

  あかあかと鉄屑積める工場を背にひろがれる干潟なりけり

  つらなりてウミウの黒き編隊が沖よりきたる三番瀬の空

  白衣(しろきぬ)がふはり浮くかにとび立てり浜にいこへる水鳥の群

 

  大杉の息吹なりけり方丈の畳座敷を吹きぬくる風

  山百合の雄蕊の風に揺れてをり雌蕊の先を紅く染めつつ

  船酔をくり返しつつ慣れてゆく八十日の航海なりき

  わが鼻も老いたるらしも潮風に匂はざりける梔子の花

  ふためきて駅のホームにとびきたる蝉は雀(すずめ)に追はれてゐたり

 

     夏の息吹   八首

  ギボウシのうつむく元に姫檜扇水仙朱きやはりうつむく

  透谷の生誕の地を探しては唐人町をわがさまよへり

  残されし一人娘の揮毫せし「北村透谷生誕之地」は

  方丈の畳座敷にふく風は大雄山の息吹なりけり

  紫陽花の色のあせたる参道に夏ふかみゆく大杉の森

  山百合の赤き雄蕊が風に揺れ雌蕊の先を紅く染めたり

  しののめの空とぶ鳥の五、六羽の首の長きはかなしかりけり

  生前に墓をつくれば安堵して長生きするもこの世なりけり

 

  波音のしづけき浜に夕されば悔しさつのる過ぎし日のこと

  波にのり汀をうつる波子貝砂にもぐりて餌をさがせる

  家族三人業者ひとりがかしこまる道のかたへの朝地鎮祭

  「晩春」とふ古き映画を見つつ酌(く)む芋焼酎は妻の買ひ置き

 

     鎌倉の秋折々   八首

  江ノ電が近づく気配地魚の干物つくれる腰越通り

  釣舟の帰りを待つか腰越の港につどふトビ、ユリカモメ

  ま昼くる訪問入浴サービスカーつばな通りの人押しのけて

  育ちたる雛を親からとりあげし孔雀の檻の静かなりけり

  長年を土鈴作りて売りし店空家となれり門前の秋

  滑川(なめかは)まがりくねれる上流の水面に沿ひてカワセミがとぶ

  白鳩の腹這ふ庭の蓮池に巣ごもれるごと白き花咲く

  横跳びに烏が歩く電線の太きが揺るる秋ふかみかも

 

  朝光に青きあかりを点(とも)したり苔(こけ)のさ庭の竜胆(りんどう)の花

  ひこばえの刈田の畔(あぜ)をわが行けば右に左にキチキチが跳ぶ

  毬栗(いがぐり)をあまたつけたる一木(いちぼく)が畑の隅にながらへてをり

  イチローの打球に芝生ちぎれとびその後を追ふライト、センター

 

     仰ぎ見る   八首

  一筋の川をはさめる新旧の参道ありて旧のさびしき

  祭礼の提灯さぐる軒下にすだれなしたる朝顔の花

  手のひらの豆腐すすりて登りしとふ「とうふ坂」あり大山参道

  雨雲に隠れし山のいただきを仰ぎたたずむ大山下社(しもしゃ)

  登山口の小さき祠に手を合はせのぼらむとする杖の老人

  名水を吐く龍の口泉には銅、ニッケルの硬貨がしづむ

  電動のノコギリの音ひびかへる山の谷川秋ふかくする

  下山して湯に入る後の贅沢はこんにやく豆腐きやらぶきに酌む

 

     相模川   三十首

  川をゆくゴミのごときか思ひ出は浮きつ沈みつわが前を過ぐ

  寄る波と返す波とがせめぎあひ大き渦なす河口の入江

  海を来し瓶、缶散れる草むらに浜昼顔は咲きてそよげり

  突堤の釣人の影消えてをり霧たちこむる入江の漁港

  釣舟に生計(なりはひ)たつる人々が稲荷を祀る河口のほとり

  くり返しうてど魚のかからざる投網あきらめ煙草とり出す

  一羽発ち五、六羽発てばいつせいに飛び立ちにけり砂洲のカモメは

  エプロンがたち働ける真昼間の河口に舫(もや)ふ夕涼み舟

  はじめてのわが賭けごとの競輪場老婆の後に従(つ)きて入りたり

  上流のダムの放流知らせるとサイレン音の鳴り方はあり

  金あらばオート免許をとらすらし陸(くが)にならべるプレジャーボート

  八月の鉄橋下の河川敷靴ぬぎそろへ昼を寝てをり

  虫捕ると網振りまはすをさな児を虫籠もてる母が見守る

  そのかみの馬入の渡し碑はあれどタブの木立は見る影もなし

  枯葦の岸にカワセミ飛びこみてまた飛び出づるまでの時の間

  川波のゆたにたゆたふまなかひに雲湧き出づる大山の峰

  水よどむ川に垂れたる釣糸にかかる魚はあはれなりけり          

  川縁に小屋建てて住む人もあり風に臭へるもの焼くけむり     

  竿のべて水面見つむる釣人の心思へりわが月曜日

  梅雨明の川の岸辺に尻ふれる白きアヒルにむらむらとせり

  ふためきて駅のホームにとびきたる蝉は雀に追はれてゐたり

  ひとすぢの川さかのぼる山奥に水たたへたる湖はあり

  この川に命をつなぐものの数アユの溯上を白鷺が待つ

  大いなるエガワヒノキの城山に夜を出歩くイノシシが棲む

  山城にこもりて逝きし女らの声とこそ聞けかなかなが啼く

  幾千年山を削りて流れけむ川の辺に立つ河岸段丘

  手と足をかたみにつなぐ猿のむれ重なりあへるごとし猿橋

  峡谷のふかき処に橋かけて山沿ひゆきし百済人はや

  清流に山女の影を追ふごとくとりとめもなし子らの行末

  定年をむかへたる身はやる瀬なき明日を思ひて夜毎寝につく

 

金槐和歌集岩波書店