一晩考えて、18日の考察を少し丁寧に書き換えておいた。
次に単語を同じ一行に入れ,句切れも整えた例を「2 空港までの彷徨」からあげる。
G 困難なたたかひの前の
くつろぎの
ロイズクリオロチョコの
一片
H これは
かはいい
わたしの
龍よ
といふやうな
フラアンジェリコの
セント聖 ミカエル
I ヴェネツィアは
水に浮きたる
廃墟
とぞ
明かりのつけ方教へてたもれ
どうであろう。大変読みやすく拍の置き方も明快で魅力的に見えてくるではないか。
別の話題として,1ページに2首並べてある場合,なにか意味を持たせているのか,関係があるのか読者は気になる。たとえば,「10 旅の終りに」の最初に,1ページに次の2首が入っている。
J マカロニに
なじむバジルや
聞きをれば 言説の
ふかきふかき
無意味さ
K エスプレッソとカプチーノ
とのどちらかを
挙手で選ぶのに
似てるとおもふ
Kの歌では,「何が」似ているのか主語が省略されている。この一首だけ提示されたら,訳がわからなくなる。読者に主語を考えさせるというだけの歌になる。だが,上のJの歌の「言説」がKの歌の主語と考えれば,辻褄が合うようである。
不思議なことだが,この『伊太利亜』のような歌集をじっくり読むと,従来の一首一行表記の書き方が実に単調でつまらなく感じられてくる。短歌形式における岡井 隆のさまざまな試行は,将来の短歌形式の多次元的なあり方・楽しみ方を提示していると評価すべきであろう。短歌革新になりうるかも。これが出張中ながら『伊太利亜』を読み終えた結論である。
早苗田の夕日がまぶし関ヶ原