天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎の明治天皇御製

 太平記に現れる鎌倉の名場面のひとつに稲村ヶ崎がある。古くは見越崎と言った。新田義貞が黄金作りの太刀を龍神に捧げ、その助けで引潮に乗じてこの難所を廻り込み、鎌倉に攻め入って北條氏を滅ぼした伝説で有名。大正六年三月、鎌倉町青年会が建てた次の碑文がある。
「今ヲ距ル五百八十四年ノ昔元弘三年五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祷レリト言フハ此ノトコロナリ」。
また明治天皇御製「新田義貞」の次の歌の石碑がある。書は海軍大将岡田啓介で、昭和十九年十月の建立。
  投げ入れし剣の光あらはれて千尋の海もくがとなりぬる


この奥には風化した石碑があるが、読めない。裏にかすかに明治三十七年三月と書かれている。明治天皇は、建武中興の大塔宮護良親王明治維新におけるご自身の立場に重ねておられたらしく、建武中興の武臣を手厚くもてなされた。


  砂黒き稲村ヶ崎に寄る波の白きにのれるサーファの群
  潮風に裸さらして寝転べりハマヒルガオ稲村ヶ崎
  断崖の岩風化してもろければ立入禁止稲村ヶ崎
  黄金の太刀の光に映えにけむ稲村ヶ崎断崖の松
  「投げ入れし剣の光あらはれて」 松の木立にすめろぎの歌
  義貞の功を讃へし石碑あり明治の御世のすめろぎの歌
  敗戦の色濃き秋に建てられし新田義貞を讃ふる歌碑は
  鳶舞ひて餌を探せりクローバの白き花咲く稲村ヶ崎
  鳶あまた稲村ヶ崎の空に舞ふ 「餌付け行為はやめてください!」
  霊仙に遊びしコッホ先生をしのびて建てし岬の石碑
  五月晴れ稲村ヶ崎に碑を読めば二羽の烏が鳶をからかふ
  ここちよき五月の風に飯食めば鳶の影くる稲村ヶ崎
  十二人の生徒の名前刻みたり「真白き富士の嶺」碑文かなしき
  友を呼び弟(おと)をささへて沈みにき江ノ島望むこの浜の沖
  かなしみの「ボート遭難碑」を書きし朝比奈宗源の書をなぞりたり


 余談めくが、先の五月連休で吉野を訪れた際、義経南朝とは吉野という場所を共通にするにすぎないと思っていたが、兵藤裕己著『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社学術文庫)を読み進むにつれて、平家物語太平記とが密接に関係しており、兵法の面からも義経楠木正成護良親王などが同じ系統を引いていると知って驚いている。奇襲の兵法は、古くは聖徳太子に遡り、山伏や非人などの世界で洗練されたものであるという。太平記には平家物語の場面のパロディがいくつもある。何故パロディかというと、平家物語のようには成功しないからであり、結果がずっこけているのだ。大変面白い。
 なお、太平記は原版を足利幕府に献上した後に、幕府が修正・編集を要求して準正史となった経緯がある。初めのうちは後醍醐天皇護良親王を好意的に書いているが、やがて君として不適切な性格であるとして、名分論に従い別の天皇を立てることになる。