天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

この世のこと(16/16)

手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけり 紀 貫之 *あるかなきかの世: はかない世。 山城の井手の玉水手に掬び頼みしかひもなき世なりけり 藤原敦忠 *頼み: 手で掬い飲む意の「手飲む」と「頼む」を掛ける。 「山城の井手の玉水をすく…

この世のこと(15/16)

人の世の思ひにかなふ物ならばわが身は君におくれましやは 後撰集・藤原定方(三条右大臣) 暮れぬまの身をば思はで人の世のあはれを知るぞかつははかなき 新古今集・紫式部 *「今日の暮れない間の命で、明日の事が分からない我が身は思わないで、はかない…

この世のこと(14/16)

虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中 増鏡・宗尊親王 *「虎とばかりに畏れられる地位に置かれたのは昔のことで、今は鼠が穴に潜むように逼塞している――ああ無情な世の中よ。」 彼是となにあげつらむよの中は一つの玉の影としらずて 良寛 *「こ…

この世のこと(13/16)

世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝びらき漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと 万葉集・沙弥満誓 *「この世の中を、いったい何に譬えようか。朝、港を漕ぎ出して行った、船の波の跡が残っていないようなものだ。」 世の中はいかに苦しと思ふらむここらの人に恨…

この世のこと(12/16)

住めばまた憂き世なりけりよそながら思ひしままの山里もがな 兼好 *「世を逃れて住めば、ここもまた憂き世であったよ。よそから眺めて住みよいと思った、そのままの山里はないものだろうか。」 習ひぞと思ひ做してや慰まむ我が身一つに憂き世ならねば 兼好 …

この世のこと(11/16)

わが庵は小倉の山の近ければうき世をしかとなかぬ日ぞなき 新勅撰集・八条院高倉 *しかと: はっきりと。「鹿と」を掛ける。 「私の住む庵は小倉山が近いので、憂き世を悲しみ、鹿といっしょに声あげて泣かない日はないよ。」 君かくて山の端深く住居せばひ…

この世のこと(10/16)

うき世をば出づる日ごとに厭へどもいつかは月の入る方をみむ 新古今集・八条院高倉 *「つらい現世を、朝日が昇るたびに厭い、遁れ出たいと思うけれど、いつになったら、月の沈むほう、西方浄土を拝むことができるのだろうか。」 昔よりはなれがたきは憂世か…

この世のこと(9/16)

かくばかり憂き世の中を忍びても待つべきことの末にあるかは 千載集・登蓮 うき世をば峰のかすみやへだつらむなほ山ざとは住みよかりけり 千載集・藤原公任 忘るるは憂世のつねと思ふにも身をやるかたのなきぞ侘しき 千載集・紫式部 かくばかり憂世の末にい…

この世のこと(8/16)

ありふるもうき世なりけり長からぬ人の心をいのちともがな 金葉集・相模 *「生き永らえるのも辛いこの世で、長続きしなかったあなたの心の想いを、私の短い命としたい。」 前書きに「ほどなく絶えにける男のもとへ言ひつかはしける」とあり、男性が遠ざかっ…

この世のこと(7/16)

うき世の意味については、歴史的に次のような変遷があった。辞典を引用すると長くなるので、要約しておく。 本来は、形容詞「憂(う)し」の連体形「憂き」に名詞「世」の付いた「憂き世」であった(仏教的厭世観)が、漢語「浮世(ふせい)」の影響を受けて、定…

この世のこと(6/16)

終りなくまして初めなど無きものを人のこの世に降る雪を見る 大河原惇行 *上句は、作者の世界観(宇宙観)であろう。 コスモスのほそく群れさく陽のなかでこの世のふしぎな時間と言えり 永田 紅 つばなの野あまりあかるく光るゆゑこの世の伴侶はだれにても…

この世のこと(5/16)

独家(ひとりや)に独り餅つく母はゐてわつしよいわつしよいこの世が白し 川野里子 一億玉砕せざりしこの世の縁側に歌ひつつ母が干す白きもの 川野里子 *川野里子の二首は、戦争に負けて母は寡婦になったが、餅を搗きそれを縁側に干して独り元気に生きている…

この世のこと(4/16)

むらぎもの心ぐるひしひと守(も)りてありのまにまにこの世は経(ふ)べし 斎藤茂吉 *むらぎもの: 「心」にかかる枕詞。心の働きは内臓の働きによると考えられたところから。 斎藤茂吉は精神科医であり、青山脳病院(現在の都立梅ヶ丘病院や斉藤病院)の院長を…

この世のこと(3/16)

難波潟みじかき葦のふしの間もあはで此の世をすぐしてよとや 新古今集・二条院讃岐 *「難波潟に生えている葦の、その短い節と節の間のように短い間も、あなたに逢わずにこの世を過ごせと言うのでしょうか。」 思ふべき我が後の世は有るか無きか無ければこそ…

この世のこと(2/16)

しかばかり契りし中も変りけるこの世に人を頼みけるかな 千載集・藤原定家 *「あれほど愛しあい契りを結んだ仲なのに、あなたはもう私のそばにはいない。来世ならともかく、この世であの人の真心を信じたのに。」 君恋ふる心の闇をわびつつはこの世ばかりと…

この世のこと(1/16)

この世として世の中、人の世、うき世(憂き世、浮世)などについて詠んだ作品を見ていこう。人間社会、世間、俗世、世情、景気、男女の間柄、自然界 等々に思いをはせた歌群である。 朝露は消えのこりてもありぬべし誰かこの世を頼みはつべき 伊勢物語 *「…

あの世のこと(6/6)

黄泉は、地面の下にあり、死者が行くといわれる所。冥土、よみじ。なお当然であるが、黄泉の国の具体的な情景は、おとぎ話や伝説以外は不明である。歌の内容に出てくることもほとんど無い。 若ければ道行き知らじ幣(まひ)はせむ黄泉(したへ)の使(つかひ)負(…

あの世のこと(5/6)

常世(の国)は、古代人が、海のむこうのきわめて遠い所にあると考えていた想像上の国で、不老不死の理想郷、神仙境とも考えられた。『古事記』にはスクナヒコナノミコトが常世の国に渡ったことが書かれている。 常世(とこよ)辺(へ)に住むべきものを剣(つる…

あの世のこと(4/6)

来世: 三世(前世、現世、来世)の一つで、死後おとずれてくる世。未来世。後世。後生。来む世。 この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にもわれはなりなむ 万葉集・大伴旅人 *「現世で楽しく過ごせるならば、来世では虫にでも鳥にでも、私はなってしま…

あの世のこと(3/6)

いかにせむわが後の世はさても猶むかしのけふを問ふ人もがな 玉葉集・建礼門院右京太夫 *「私の死んだ後はどうしたものだろう。あの人の後世を弔う人がいなくなってもやはり、今日の忌日を弔ってくれる人がほしいものだ。」 後のよを思ひ置きけん呉竹のその…

あの世のこと(2/6)

いかでいかで恋ふる心を慰めてのちの世までのものを思はじ 拾遺集・大中臣能宣 よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ 新古今集・藤原俊成 *藤原俊成が、妻(藤原定家の母)になることになる美福門院加賀 に贈った歌。 「よし、それ…

あの世のこと(1/6)

あの世とは、この世とは別の世界を指す。一般には死後の世界をいうとされているが、ここではもっとも広く前世、来世、後の世、常世、黄泉の国などととらえて、それらについて詠んだ作品を見てみよう。 さきの世の契りをしらではかなくも人をつらしと思ひける…

電子メール

電子メールとは、通信ネットワークを介してコンピュータなどの機器の間で文字を中心とするメッセージを送受信するシステムであるが、テキスト形式のメッセージを電気的に伝える方法は1800年代中頃のモールス信号による電報に遡る。つまり電子メールはインタ…

手紙のうた(4/4)

長き長き手紙を書かむと思ひしにありがたうと書けば言ひ尽くしたり 稲葉京子 手書き文字の一字だに無き手紙を寄せ返事待つとぞ未知なる人が 辻下淑子 いとけなきものに手紙を書く朝のひらかなばかり善きことばかり 高尾文子 *いとけなきもの: おさなくて小…

手紙のうた(3/4)

墨薄く悔みの手紙かきつれどいまさらさらに何をかいはむ 吉野秀雄 出さざりし手紙日を経て破りをり屈折はわが裡にて終る 森山晴美 身辺をととのへゆかな春なれば手紙ひとたば草上に燃す 小中英之 とどきたる手紙の真意はかりつつ切り開く白菜の株の緊密 北沢…

手紙のうた(2/4)

白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 斎藤 史 *作者の代表歌の一首。 きざし来る猜疑を秘めて書く手紙明るき雨と書きつつ脆し 大西民子 声しぼる蝉は背後に翳りつつ鎮石(しづし)のごとく手紙もちゆく 山中智恵子 *鎮石の由来は、…

手紙のうた(1/4)

日本では古くは木簡を文字による通信伝達の手段として用いた。平安時代になると、紙漉きが各地で行われるようになり、都の平安貴族の間では木の板に代わって和紙に文字を書いて送ることが盛んに行われるようになった。(百科事典) 唐衣つまとは君になりはて…

歌集『近景』に見る旅行詠

大森浄子さんの第三歌集になる『近景』(角川書店)が十月に刊行された。全体として平穏な日常生活が詠まれていて、平和な日本が実感できる。中でも惹かれたのは旅行詠である。日本国内はもちろんのこと、海外(ハンガリー、バルカン半島、イタリア、インド…

カレーを詠む

今年の「短歌人」十月号に、小池光さんの「仰げば尊し」五首があるが、その中に次の一首を見つけた。奥様を亡くされて独り暮らしの小池さんの現状が身に染みてわかる作品。 横須賀の海軍カレーあたためてひとり食ふべき夜とはなりぬ 小池 光 今まで取り上げ…

血のうた(5/5)

聞くための柔らかき襞日に透きてうすき血をもつにんげんの耳 三枝浩樹 窓に灯の蕭々と洩れ音もなく殺人現場の血を跨ぎゆく 砂田武治 魚けもの人も淋しき春の血を溜めてねむらむ夜空がひらく 河野愛子 血しほにもみちひきありておのづから満潮の夜の一身あを…