天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌における笑い

1 瓶にさす藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり
2 日本国の児童諸君はおしなべて辛抱づよくあれとしぞおもふ
3 税務署に届けに行かむ道すがら馬に逢ひたりあゝ馬のかほ
4 人富みてゆたかになれる面相を牛馬見なばいかにか見らむ
5 われの背にゐるをさな児が吃逆せり世の賢きもするがごとくに
6 秋たちし畳の上に居る蠅をわれに近づくまへに殺せり
7 わが孫のをさなご二人めざむればそれより先に雨ふりてゐる


 これらの内のどの歌に笑えるだろうか? 昨日買った十二月号『歌壇』の特集「短歌にひそむ笑い」で、小池光が笑ってしまう歌としてあげた例である。1番目は、言わずと知れた正岡子規の歌であるが、他は全て斉藤茂吉の作品である。短歌に笑いを誘発されるには、一読して笑えるものでないと自分の笑いとはいえまい。いろいろ解釈してはじめておかしみがわかる、というのでは真の笑いにはならない。
1の歌に笑いを感じる人は希ではあるまいか。まじめな人ほど、6,7のどこがおかしいのかというだろう。小池は、おかしみの原因をこれら短歌における言葉の斡旋、構文並びに作者の特質の面から解説してみせる。これらを一読して笑える、という感性と言語感覚は小池光独自であるといってよい。彼が短歌を作る場合に個性が出る背景でもある。ただ、意地悪くとれば、この評論のために無理して笑いを読み取ったキライもあるか。