天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

宿命

 『俳壇』十二月号に「現代俳句の精鋭たち(最終回)宮坂静生」を読んでいて、あらためて短詩型の危うさを感じた。ひとつの言葉なり言葉の斡旋が先行する別の作品を思い起こさせるのである。ベテラン俳人の宮坂静生の作品だけに驚く。

     捨てマッチ地に燃え青春は霧か 宮坂静生(昭和五十四年)
  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
                    寺山修司(昭和三十三年)


     濁りこそ川のちからや白絣   宮坂静生(昭和六十三年)
     紺絣春月重く出でしかな    飯田龍太(昭和二十九年)


     萍の実をつけいそぐ山の牧   宮坂静生(平成十二年)
     啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋櫻子(昭和五年)

 それとは違って、例えばつぎのような組み合わせはどうか?
   秋たちし畳の上に居る蠅をわれに近づくまへに殺せり
                    斉藤茂吉
     蠅叩たたき疲れて父死にしか  鈴木鷹夫

短歌において上句や下句を他の短歌の上句や下句とすげ換えると、なかなか面白い作品になることがある。こうした現象が起きるのが短詩型の宿命である。

        焼き芋の声昼時のオフィス街
        色鳥やサイドミラーを離れえず
        ひときはにもみぢ日に照る欅かな
        地も空ももみぢに染まる斎庭かな
        燈篭の罅(ひび)をなほせる冬陽かな