天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

「切れ」の由来(2)

梅もどき(長谷寺にて)

 連歌の初めは、倭建命が東征の帰途、甲斐国に入り酒折宮に留まって、土地の翁と次のような片歌のやりとりをした(古事記に記載)ことにある。


倭建命:  「新治、筑波を過ぎて幾夜かねつる」   
火焚きの翁:「かゞなべて夜には九夜、日には
       十日を」
 

 奈良・平安時代は、短歌の上句5・7・5(長句という)をある人が詠み、下句7・7(短句という)を別の人が詠むという長短2句のみの短連歌が多かった。中世になると、長短長短を50句,100句,120句と繰り返す長連歌が盛んになり、室町期に最盛期を迎えた。複数の人達が一座として共同制作する日本独特の文芸である。そこでは、句と句の付け方・場面展開の面白さ、いわゆる付合を味わった。その基調は和歌的情趣の「有心連歌」であったが、江戸期には滑稽・諧謔を基調とする「俳諧連歌連句ともいう)」が主流になる。貞門の物付(言葉上の関連)、談林派の心付(意味の関連)、蕉風の匂付(余情のやりとり)などと展開する。芭蕉以後は、発句(5・7・5)が中心になった。それは、連歌における「切れ」は、長句と短句との間にあったが、発句では、5・7・5の構成の中でも「切れ」の手法により一句が詩として独立しうることが認識されるようになったからである。発句における切れ字の重要性を芭蕉が指摘している。そして明治期、正岡子規により俳句として独立した。