天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

青函連絡船

八甲田丸

 青森には学生時代に、自転車部の旅行で一回訪れたのみである。その時には、上野駅から自転車で出発し、国道4号線にのって北上し三陸海岸沿いに走った。青森に着いてからは、自転車を今で言う宅急便で送り返し、バスで十和田湖を見物して汽車で帰京した記憶がある。今回は、わが生涯二度目の訪問となる。弘前の桜と三内丸山遺跡を見ることが主たる目的。初日は、青森は雨もよいでえらく寒かった。青函連絡船の「八甲田」を見学することが精一杯であった。
 青函連絡船の始まりは明治41年(1908年)に鉄道連絡船として比羅丸が就航した時である。そしてその終焉は、青函トンネルの開通にあわせて昭和63年(1988年)3月13日であった。最後の連絡船になったのが、八甲田丸であり、いま記念として青森港に繋留されている。就航中の期間に遭遇した大事件は、米軍機による空襲と洞爺丸沈没であった。当時の模様が、八甲田丸の中でニュース映画が上映されている。


  栗駒の高原の木々若葉せり雪雲のこるみちのくの空
  枝垂れたる柳若葉のうすづきに北上川の水面せまれり
  北上(ほくじょう)のさくら前線このあたり野辺地の駅に
  花咲きそむる


  航海をやめて年経し岸壁の八甲田丸春雨に濡る
  近づけば「津軽海峡冬景色」唄ひ出だせる記念碑はあり
  機関車も貨車ものみ込み船出せり青函連絡船の毎日
  犠牲者はまとめて荼毘にふせられきうちかさなりて
  見分けもつかぬ


  傾ける壁に手をつき打電せしSOSも虚しかりけり
  海を見て女がひとり坐りゐき連絡船の着きし港に