天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(32)―

永田書房刊

 高浜虚子の墓は、鎌倉の寿福寺の墓地にある。周知のようにこの墓域には、北條政子や源実朝の墓と伝える五輪塔大仏次郎陸奥宗光などの墓もある。鎌倉を歩くついでに、年に数回はこの墓地を訪れる。虚子の墓の左右には、「白童女墓」と「紅童女墓」があるのだが、これら童女のことについては、軽い疑問を抱くのみで調べてみたことはなかった。それが白童女については、このたび川崎展宏『高浜虚子』を読んでいて、はからずも明らかになった。
 白童女とは、虚子の四女・六子(ろくこ)の戒名である。虚子自身の命名による。六子は幼い頃に罹患した肺炎の処置が誤って脳を冒され、三歳になっても首が据わらない子であった。そして再びかかった肺炎に苦しんだ末に亡くなる。虚子は、この子の死について、「落葉降る下にて」や「鎌倉の一日」の中に詳しく書いている。
  「三歳の少女は父母にも抱かれずに、風の空洞を吹くやうな声を
   残して其儘瞑目してしまつたのである。・・・私は其後度々墓参
   をした。凡てのものの亡び行く姿、中にも自分の亡び行く姿が
   鏡に映るやうに此墓表に映つてみえた。・・・
   諸法実相といふのはここの事だ、唯ありの儘をありの儘として
   考えるより外は無いと思った。」(「落葉降る下にて」から)
 川崎展宏は、虚子が説いた「客観写生」の基本的考え方が、ここにあると指摘する。即ち、虚子が、「客観の写生」というとき、それは単なる俳句の方法として唱えられたものではなくて、虚子の生き方と結びついた自然に対する深い信頼に根ざしていわれたものに違いない、と解説している。
 なお、紅童女とは、虚子の孫娘・高木防子の戒名である。