天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(37)―

近代文芸社刊

有間皇子の辞世と続く挽歌

 久しぶりにわくわくして本を読んだ。その本は、山口孝晴『万葉集 巻二「挽歌」に見る構図』近代文芸社 である。万葉集巻二「挽歌」の冒頭部には、良く知られた以下の一連がある。詞書を省略して短歌だけ記す。


一四一 磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへりみむ
                     有間皇子
一四二 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
                     有間皇子
一四三 磐代の崖の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも
                   長忌寸奥麻呂
一四四 磐代の野中に立てる結び松心も解けず古思ほゆ
                   長忌寸奥麻呂
一四五 翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
                     山上憶良
一四六 後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまたも見むかも
                  柿本人麻呂歌集


興味津津となるところは、一四六歌に対する著者・山口孝晴の鑑賞であり推理である。表面上は、これら一連は有間皇子の刑死を悼んだ挽歌に見えるが、実はそうではないだろう。何故なら一四三歌以降は、有間皇子の刑死から数十年も後に詠まれたものだが、有間皇子に対する挽歌としては内容が相応しくない、という。
 著者は、一四六歌を柿本人麻呂本人の作とし、実は人麻呂自身の先行きを暗示したものと推理する。柿本人麻呂がどこでどのような死に方をしたか、隠されているが、長忌寸奥麻呂や山上憶良ら(巻二の編集者とみる)は、秘かに実情を知っていた。それを暗にこれらの歌に重ねていた、と推理する。著者は、これらの歌と他の歌などから柿本人麻呂の死の謎に迫るのである。