天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

桜狩りー小田原城址

小田原城址公園にて

[はじめに]この桜狩りシリーズは、一週間あまり前のことと思ってください。


東京では桜が満開になった、というニュースが流れた。ならばもっと南にある小田原でも満開が近いはず、と考えて出かけた。予めWEBで開花状況を調べてみたが、例年のことが書いてあるだけで、現状の情報がなかった。いつものように北入口から入った。沿道の桜は満開に近かった。天守閣を左手に見る遊園地の桜も咲いていた。ただその背後の丘の桜は、三分咲きほど。
報徳二宮神社の境内を通り、南入口を出て西海子(さいかち)小路まで行ってみて、がっかりした。ここは三分咲きほどで人影もまばら。しかたなく南入口に引き返し、城の堀に沿う桜を見ながら二の丸へと向かった。堀沿いの桜も満開にはほど遠い。常盤木門から本丸に入って桜の向こうの天守閣をあらためて見上げた。ここからなら満足できる光景であった。その夜のニュースで、小田原城本丸の夜桜が紹介されていたのでびっくりした。開府500年記念のライトアップとのこと。


     おみくじの御払箱やさくら咲く
     見上げたる花のむかふに天守
     花咲くや人むらがれる天守
     小田原城見上げ見下ろす桜かな
     石段の手すりにすがる桜かな


  来てみればいまだ四分咲き粋人の影まばらなる西海子小路
  小田原城花の見どころめぐりつつ早すぎたるを悔やむ休日
  象棲みて事故多発せし象園の跡形もなし本丸跡は
  六十年本丸跡の象園に棲みしうめ子のおもかげもなし
  回廊に人らならべる天守閣白き桜の花の合間に


[参考]小田原城の歴史
小田原城の起源は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族の居館にあるという。以後、北条早雲を始祖とする北条氏が五代にわたって居城にした。その後、豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして北条氏と開戦し、無血開城させた。戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康は腹心の大久保忠世小田原城をまかせた。明治3年から明治5年にかけ、城内の建造物はほとんど取り壊された。さらに、関東大震災での倒壊などで荒廃が進んだが、昭和25年には天守台の整備を開始し、昭和35年天守の再建工事が完成。小田原城址公園として公開された。