短歌人東京歌会
今日は、歌会前の午前中に荒川に行くことにして川口駅で電車を降り、荒川大橋を通るバスに乗ったつもりが、間違えてしまった。帰りは荒川から赤羽駅まで、これも方向を間違えて同じ道を往復したりで、えらい距離を歩くはめになった。久しぶりに大汗をかき、シャツと上着を替えた。
釣り糸を垂るる川岸行々子
荒川や雲雀鳴きやむ河川敷
揚雲雀中州に見たるヘリポート
野球する川辺の空の雲雀かな
上流と下流の見分けつかざらむとまりて見ゆるゆたかなる水
荒川とここに分かるる隅田川中洲くさむらヨシキリの啼く
荒ぶれる川なだめ来し歳月の赤水門と青水門と
岩淵の赤き水門をわれも見る摂政宮殿下御野立之跡
釣り人の一人が持てる釣竿の四、五本並ぶよしきりの声
草刈に農民魂見出せる人々住めり荒川の縁
由緒ある地名消えゆく世に立てり岩淵町名存続之碑は
河川敷球場に巣を作れるか球児の空に雲雀啼くなり
カワヒガイ、タモロコ、モツゴゐるめれど区別つかざり水槽の中
荒川に棲める魚を水槽に飼ひて展示す知水資料館
安全なる保育器として二枚貝鰓にはぐくむタナゴのたまご
水面より低きところに今も住む梅雨にけむれる荒川あたり
歌会に出したわが詠草は、
「お静かに」くわんくわう客を制止せるくわんおん堂の光おもたき
これに当たった評者は、ひらがな表記を雰囲気に合うとして評価してくれた。制止したのが荘厳な光のようにも読めるところを生かした方がよいので、ひらがな書きは遊びすぎになり逆効果、という意見も出た。作者の期待したのは、このひらがな書きで寺の鐘を連想させ、光とあいまって荘厳さをかもし出す工夫をしている、ということであったのだが。
歌会後半は小池光が司会を務めたので、俄然面白くなった。人を笑わせる言葉使いにいつも感心する。特に騒がしくなった歌を二、三首あげておく。
天際の婆伽梵(バガボン)なれば肩で風六十余州に隠れなきまで
依田仁美
*もちろんマンガの「天才バガボン」のもじりだが、辞書をひく
と、実は婆伽梵(バガボン)とは、釈迦牟尼の尊称、あるいは
インドで、神仏・貴人の尊称というのが漢字の元の意味、
ということで皆感心することしきり。
夜空には略語飛び交ひ清原はネクストバッターズサークルに立つ
大越 泉
*おおくの人が、何が歌のポイントなのか判らない、との意見で
あったが、小池は上句の略語と、下句のやけに正確なネクスト
バッターズサークル(「ズ」と複数にしたところ)の対比が
ミソであると、簡単に解釈した。鋭い指摘である。
ふたりだけで馬跳びをするやうに生き小皿のおほき母子(ははこ)
の夕餉 高澤志穂
*母子家庭のさみしいが愛情あふれる情景との評が出たが、
いやいや馬跳びする母子となると元気いっぱいでさみしく
はない、という解釈も出て笑いがあふれた。
下句「小皿のおほき」がこまやかな愛情を感じさせる上手
な表現である。
ちなみに小池光の詠草は、
バラライカの三角胴はをりをりに露西亜をとめの脇腹刺さむ
*みなの大半の評は、結句が言いすぎ、とのこと。口には出さ
なかったが、それは違う、詩とはこういう作りをするもの、
というのがわが思いであった。
なお、「露西亜をとめ」という言い方は、塚本邦雄調である。