天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

三浦半島・荒崎

荒崎と石蕗の花

「ちょうどお客さんが立っているところで昨日、女の人が立っていたんですよ。自殺のシーンの撮影らしく、高田順次や泉ピン子などがきていましてね。」
「でもこの高さでは自殺は無理でしょう。」
「まあ撮影ですからね、テレビではどんな風にみえるんでしょうね。今日はずいぶん釣舟がでているなあ。平塚沖か、茅ヶ崎沖かなあ。」
「下の磯で大きな魚は釣れるんですか?」
「鰯を追いかけてイナダが入ってくるらしいが。」
「今つわぶきの花がさかりですね。」
「え、あの花のことですか?蕗に似ているなあと思っていたんだが。」
「石の蕗と書いて、つわ、とかつわぶき、というんです。でも蕗の一種ではなくてキク科です。」
荒崎の断崖に立っていたら、いつの間にか老警備員が近づいてきたので、話をしながら歩いたのであった。

        大根や朝日を浴ぶる白き肩
        かもめ見る夕日の丘の尾花かな
        断崖にこぼれんばかり石蕗の花
   何鳥か群なしてとぶ羽ばたきの朝日にひかる胸毛羽根裏
   朝なぎの海をながむる荒崎の夕日の丘にひよどりが啼く
   自殺する高さにあらね荒崎の礁(いくり)見下ろす潮風の丘
   大いなるむすび頬張る妻がゐて娘ふたりと荒崎の磯
   霜月は見るものとてもなかりけり芝生枯れたる景勝の丘
   街灯のポールの先にとまりたるかもめはいまだ翔つ気配なし


次に京急長沢まで戻って、ひさしぶりに牧水資料館と歌碑を訪ねる。ところが、住宅が造成され、風景が様変わりしていた。どこにあるのかわからない。ゆきつもどりつ人に聞いてやっと見つけた。残念ながら牧水資料館の入口は工事中で入れそうもない。
整備された海岸沿いの公園に、歌碑が二基建っている。新しいものは、昭和六十二年文化の日の建立で、牧水の歌、息子の旅人の書である。
   海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず
古い方は、夫婦歌碑と呼ばれているもので、昭和二十八年の建立。片面に牧水の名歌
   しらとりはかなしからずやそらの青海のあをにもそまずただよふ
大正四年に妻の病気の療養にとここ北下浦に移ってきた。この歌はすでに明治四十年には出来ていたので、この地で詠まれたものではない。
その裏面に妻・喜志子の歌で
   うちけぶり鋸山も浮び来とうみのみちしほふくらみ寄する
                 大正四年秋 北下浦にて詠む
と見える。北下浦には一年九ヶ月ほどの滞在であった。

   開発の鎚音たかき海の辺の公園にありふたつ碑(いしぶみ)
   海浜の宅地造成とどまらず北下浦は様変わりせり
   がはがはと工事すすめる海岸に牧水喜志子の夫婦歌碑見る
   病癒え子もさずかりし秋の日に潮ふくらむと歌詠みし妻
   二度三度ゆきつもどりつ探せどもむなしかりけり住まひの
   跡は


   この川のほとりなるらし牧水が病妻と子と住まひしところ


次に、長沢に近づくにつれ京急電車の窓から見える山上の大仏と朱塗りの五重塔まで歩く。だが、入口が見つからず、ここでも坂をゆきつもどりつ、疲労を重ねた。

         山谷を墓がうづむるもみぢかな      
   山頂に十大弟子と涅槃像だるまもありて山茶花が散る
   見上ぐれば足の踏み場もなきほどに墓立ち並ぶ山の霊園
   入口の見あたらざればゆきなずみ足ひきずれる墓地の丘陵
   丘陵の道の辺に立つ石像の親鸞上人晩年の顔
   大仏の膝元近くおはします石になりたる鑑真和上
   電車より仰ぎ見しかどやうやくにたどりつきたる山頂の塔