?と!の新春詠(俳句)
平成十八年一月号の「俳壇」に載っている新春詠から、疑問(?)が出てくる句といけるじゃない(!)、という句をいくつかとりあげる。
白波をめくる海石(いくり)や初日の出 鷹羽狩行
「めくる」という措辞で決まった。冬の白波が寄せる海の中に海石があって、そこで白波が一段と高くなり裏返るように崩れる。その向うの海坂から元日の太陽が昇ってくるのだ。
初日出て月のすがたの見当たらず 鷹羽狩行
これは頂けない。座五が全く平凡で働かないのだ。
方円の餅を沈めて甕の底 鷹羽狩行
「沈めて」の後に「底」ときては、興ざめなのだ。老いたり鷹羽狩行。
瓜坊が蜜柑食べぬと子ども泣く 金子兜太
「食べぬ」とは、完了形なのか否定形なのか。前者なら、蜜柑を瓜坊にやるつもりなどなかった。後者なら、蜜柑をやろうと思ったのに食べてくれなかった。当然前者なのだと作者は言い張るだろうが、飽食の時代では、動物にも好き嫌いはあるから、後者だってあり得るのだ。
迷い蜂帰る燕につままれる 金子兜太
座五の言い方だと、足先でつまんだように読める。実際は、嘴で啄むはずだ。「ついばまれ」なら納得するのに。
暮の三越日本ふんどし買いにけり 金子兜太
日本橋三越なのかと一瞬思うが、さにあらず。「日本ふんどし」という続きなのだ。では「西洋ふんどし」があるのか、と疑問に思う。馬鹿馬鹿しいではないか。
ほろほろと雉食ふ街の日短か 有馬朗人
作者は雉をほろほろと食っている。日短の冬のある日の街で。
またたきて確かめたりし返り花 鷲谷七菜子
今頃この花が咲くの、と思わず見る目に力が入ってまばたいて確かめた。季節はずれに咲く花を返り花という。
冬菜売夕映すでに空にのみ 岡本 眸
冬菜を売り歩いて日が暮れる。街中はすでに暗い。夕映はすでにはるかな空に残るのみ。
深入れば過去へ近づく落葉道 鍵和田秞子
初句がぎこちない言い方だが、落葉の道を奥へ進むと確かに過去へちかづくであろう、と読者は納得するかも。
この坂の果て白雲と白障子 友岡子郷
白障子をどのような情景として解釈するかで、名句になるか、不可解な句になるか決まる。このという指示代名詞も解釈に影響する。白雲は見えているが、白障子は見えているのかいないのか。
子に智慧がつき泪夫藍の花の丈 宮坂静生
子に智慧がつくにつれ背丈も伸びてサフランの花の位置くらいになった。
元日の過失鮮(あら)らし霜の崖 斉藤慎爾
なんだこれは?元日にやってしまった過失が鮮しいというのは、措辞としては当たり前。座五は、他の言葉で置き換えてなんら差し支えない。思わせぶりだけのつまらない句との酷評がでる。