俳句における演出
午後は東京ビッグサイトで開催のセキュリティショーなどを見てきたので、少し早く帰宅できた。酒が切れていた。近くのコンビニまで出かけ、「さつま白波」を買ってきて、肉じゃがを肴に、ロンザロックを楽しんでいる。
「古志」三月号・長谷川主宰の巻頭「カトレア」から、気になる句を抜き出してみる。毎号感心ばかりして読んでいるのだが、今回はちょっと違和感を覚える句がいくつかあった。
A 初氷石から石へ石叩
B かりそめの小枝に二つ帰り花
C 編み棒と毛糸かたみに語るらく
D 心から心にわたす冬の菊
A: 初氷と石との取合わせはよいが、石の繰り返しをどう感じるか。
うるさいなあ、と思う。
B: 「かりそめ」と「帰り花」という言葉が妙に抹香くさい。
しかつめらしくて頂けない。
C: これはうまい、と思うが、しかし結句が自然らしさを演出して
いて、かえってわざとらしいとケチがつく恐れあり。
この句の次に「編み棒も毛糸も人も眠そうな」があるが、
これは素直に、いいなあと言える。
E: 弔句らしい。でないと、何のことか理解できない。
なにか思わせぶりなのだ。
この次に「いづくまで梅を探りにゆかれしか」があり、
平凡ながら弔句として共感できる。