天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

君かへす朝

 短歌は一人称の文芸といわれることから、作品の主人公は作者自身ということを暗黙裡に前提としているところがある。しかし、ここに落とし穴がある。短歌のリアリティを論じる時、作品の内容が作者に実際に起きた事態のごとく解釈する危険性である。
  君かへす朝の舗(しき)石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ


これは、北原白秋の名歌であるが、その鑑賞において道浦母都子のような名の売れた歌人が、姦通罪に問われた人妻・松下俊子との後朝の歌と解説している。これに対して、白秋の長男の北原隆太郎は、とんでもないとおおいに憤慨している。彼の言い分では、この歌は、明治四十二年五月に「スバル」に初めて掲載されたが、それは白秋が俊子と出会う以前であるとする。芸術作品をすぐ実在人物と結びつけるのは軽薄、と手厳しい。
 驚いたことに、「短歌研究」五月号の特集「歌のリアリティを獲得するには」で、岩田正がこの歌をとりあげて、「君」とは人妻・松下俊子である、としている。北原隆太郎が杜撰なりと槍玉にあげた道浦母都子の著『男流歌人列伝』を孫引きした感がある。
ともかく鑑賞に当たって注意しなければならないのは、作品と作者の実態とを混同しないこと。短歌はあくまで創作であり、事実かどうかは問題ではない。リアリティと事実とは同一ではないことを肝に銘じたい。同じ「短歌研究」五月号の特集では、高野公彦や小池光の指摘が貴重であり説得力がある。


     さまざまの花の姿やさくら草
  あらはなる化粧の顔の巫女きたり斎庭くらめて咲く八重桜