天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

花時雨

藤

 今日も北原隆太郎著『父・白秋と私』を持ち歩いて続きを読んでいる。白秋に対する批判的な評論や鑑賞には、やっきになって反論しているように感じられる。旧制富山高校、東大美学科、京大哲学科という学歴を持ち、坐禅修業に励んだ知識人としては、感情的に過ぎる文章が気になる。禅を修めた冷静沈着な哲学者といったイメージからは程遠い。他者が書いた白秋の評伝で気に食わないところがあれば、事実と違うところは淡々と正確に事実を示せばよいし、別の見方を許容する度量もほしい。もっとも鈴木大拙老師は、「禅は詩である」といったらしいので、禅に冷静さを求めるのは筋違いか。父ということを離れて、白秋という大詩人の創造の源泉を哲学的な見地だけから体系付けた評論を望みたかった。残念ながら著者はすでに亡くなっている。

 こぬか雨にもかかわらず長谷寺は、内外の観光客が引きもきらない。桜の後では、都忘れ、大手毬、藤、牡丹、石楠花、さくらそう などの花々を楽しめる。


     花時雨辻に黒ずむ六地蔵
     つちふるや鎌倉笹目塔之辻
     説法に檀徒笑へり藤の花
     こぬか雨傘ひろげたる花の王