天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

横浜山手徘徊

山手資料館

 山手資料館刊、小寺篤著『横浜山手変遷誌』を片手に、横浜山手を歩いた。何年前であったか、夏休みに何度も通って歌に詠んだことがあるが、その折に山手資料館に入って購入した本であり、一通り眼を通している。なのに何故こうも惹かれるのか。この地の歴史に現在日本の縮図を見るような思いがするのである。いまだに女性たちにあこがれの観光スポットであるのも気にかかる。
 先ず今日歩いたルートを書いておこう。
 石川町駅下車、地蔵坂の途中から乙女坂を上り新約聖書和訳記念の地である横浜共立学園にゆく。記念碑を見たいが、学園構内にあり守衛がいるので遠慮した。地蔵坂上から桜道をたどり山手公園にゆく。ここは日本庭球発祥の地である。ヒマラヤ杉の並木の蔭に現在もテニスコートが数面あり会員の主婦たちが朝からテニスに興じて華やいだ声をあげている。ここから本牧方向に坂を下りて本牧山妙香寺にゆき、君が代由緒の碑を見る。来た坂を戻って山手本通りに出て、イギリス人貿易商の旧ベーリック邸、スイス人貿易商のエリスマン邸、山手聖公会、山手資料館、山手十番館などの瀟洒な建物を見たあと、陣屋坂、ビヤ坂をたどってキリン園の麒麟麦酒開源の碑を写真に撮る。見上げるばかりの大きな石碑である。竹越興三郎撰、野本白雲書とある。元来た坂を戻って旧横浜英国総領事館公邸のイギリス館、港が見える丘公園、フランス山へとたどる。フランス山には「愛の母子像」がある。これは、昭和五十二年九月に米軍機が墜落し母と幼児二人が犠牲になったことを悼んでここに建てられたもの。またフランス山と称される場所は、元治元年(一八六四)以来フランス政府の永代借地であり、明治二九年(一八九六)から昭和三三年(一九五八)までフランス領事館が設置されていた。昭和四六年(一九七一)横浜市が土地の所有権を取得した。この山を降りて谷戸坂に出会うところがクリーニング業発祥之地である。堀川沿いに元町方向にすこし行ったところに日本最初の機械製氷会社の跡があり今は迎賓館になっている。外国人墓地は元、増徳院の墓地であったとのこと。その増徳院の跡地は駐車場建屋である。元町商店街の途中から代官坂を上る。途中にバプティスト教会発祥之地の碑があり向かいに代官屋敷跡があるが、地主であった石川家が今もこの土地を継承しており、「石川」の表札が掛かる。代官坂を上りきるとまた山手本通りにでる。そこからフェリス女学院の横の汐汲坂を降りる。途中に昔、中島敦が教鞭をとった横浜高等女学校、現在は横浜学園がある。その当時紫の袴を着けて「紫高女」と言って通学する女学生が眩しかった。元町仲通りには、唐人お吉と恋人の鶴松が四年間住んだという説明の看板があった。看板の右下隅には、十九歳当時のお吉の写真が入っているが、現代的顔立ちの美人である。こうして再び石川町駅に戻ってきた。
 幕末の日本は帝国主義の先進諸外国から通商条約を迫られていた。幕府は、横浜を貿易港として開くに当たって居留地を提供しなけらばならなかった。それがここ山手である。諸外国の居留民を守るという口実のもと軍隊までが駐留した。各派のキリスト教会が建ち、封建時代の日本子女を開放するという名目でミッション・スクールも次々に開校した。
 ところで第二次世界大戦に敗北した日本は、日米安保条約を結んで、米国軍隊に日本駐留を許し、国の防衛を依頼する形をとって平和を維持している。幕末以降の日本は、完全な独立国家とはいえないような体をとっている。インドや中国などと比較しての話であるが。