天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

現代歌言葉

 本屋でためつすがめつした末、思い切って『岡井隆全歌集』思潮社、Ⅰ、Ⅱを買った。新品なので、定価どうり税込み一万五千七百五十円であった。インターネットで古本も見てみたが、全く安くなっていなかった。こうした全集を購入するのをためらうのは、筆者が存命であるかぎり、次々に新しい歌集が出てくるからである。岡井隆の場合も、結果として何冊かこの全集とダブって買ってしまった歌集がある。
 先ずはⅡ巻別冊の「岡井隆論考」という小冊子を読んだ。推薦文は参考にならなかったが、二、三の論考・エッセイは大変興味深かった。
藤井貞和「歌言葉表現」 が引用している、岡井自身の文章として
 *短歌をつくるとは、歌言葉に翻訳することである。歌言葉と
  いっても、僕は、古典的な句法や単語だけを指してはいない。
  むしろ、僕らの努力で、現代日本語から採集して歌言葉を豊富
  にしてゆくことこそ、現代短歌が真に現代短歌たるために必要
  なのだと思う。が、一方、僕らが普通、それによって表象したり
  しゃべったりしている日本語が、そのまま歌言葉たりうるとする
  誤解ほど、歌を枯らすものはないのであって、・・・・


なんとも身につまされるのだが、岡井の次のような作品は、どこが現代の歌言葉であろうか。
  胸もとに前肢つけて兎立ちうす暗がりに慣れゆくわが眼
  幾日か恋々とせし臆説をくらき彼方へ遠ざからし
  ヨオロッパより百年を後れつつ臆説ひとつ蘇らしむ