天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

明月院

明月院の菖蒲田

 紫陽花の季節なので北鎌倉の明月院に行った。平日なので観光客は少ないと思っていたのだが、とんでもない。小学生や中学生のグループ、老人たちの群そして観光客と門前に列なすほどであった。肝心の紫陽花は、咲き始めたばかり。ただ、後庭園の花菖蒲が盛りだったので来た甲斐はあった。入場料は五百円。ここは秋の紅葉の見頃にも開園する。
 明月院から建長寺に廻る。やはり人は多い。本堂裏の蘸碧(さんぺき)池をベンチに坐ってぼんやり見ていた。ここの庭はもともと蘭渓道隆の設計であったという。


     円窓の奥処ゆかしも花菖蒲
     砂の海石庭に咲く躑躅かな
     柏槙の木蔭涼しき写生かな
     托鉢の僧出でゆけり夏木立
     つばめ来てさん碧(ぺき)池に腹うてり


  玉なして谷戸に咲きそむ白の上に青うすづけるあぢさゐの花
  アパートの壁迫りたりまばらなる木立の蔭の時頼の墓
  蝋燭の火影ゆれゐる法堂の龍に聞かする般若心経
  法堂の釈迦苦行像前にして先祖供養の般若心経
  たうたうと太鼓をうてる法堂に声はりあぐる般若心経
  法堂の苦行の釈迦にまむかひて黄衣の僧はお経を誦せり
  うぐひすの声したたれり松影のみどり映せる
  さん碧(ぺき)の池


  つばめ来て水面に白き腹うてりみどり映せる
  さん碧(ぺき)の池


  南無延命地蔵菩薩の円応寺閻魔の前にみなうなだるる
 
 追伸。明日の湘南ライナーの切符を買いに藤沢駅に出た帰り、散歩がてら遊行寺の参道に入ったら、なんと板割浅太郎の墓を見つけた。遊行寺境内は隈なく知っているつもりであったが、今までまったく気づかなかった。天保十三年、忠治と親分子分の縁を切られて赤城山を下りた浅太郎は、殺害した勘助、勘太郎父子の菩提を弔おうと、信州佐久にあった時宗の寺へ入門した。のちに遊行上人の手引きで藤沢の総本山に移り、堂守や鐘撞きをして精進した。それが認められて和尚になり貞松院住職に就いた。明治十三年に遊行寺が火災に遭うと、各地を巡って浄財を募り、寺の復興につくした。明治二十六年、七十四年の生涯を閉じた。


  遊行寺の黒門くぐる夕暮に板割浅太郎の墓見つけたり
  板割浅太郎の墓見出でたり遊行寺塔頭墓地の片隅