天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

歴史とは

 ここ二、三年鉄道への投身自殺が多くて、全くサラリーマン泣かせである。今朝も起きた。藤沢駅で、昨日切符を買った湘南ライナーの到着が遅れ、ベンチで本を読みながら我慢強く待っていたのだが、順番としてもう来る頃と、列に並んだのに、運転中止というアナウンス。切符を払い戻して、会社にゆくのをあきらめた。ベンチで読んでいたのは、先日も紹介した兵藤裕己著『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社学術文庫)である。最終章の「歴史という物語」に入っている。時の政権と彼らが編集した日本史の扱いについて、あらためて考えさせられた。中でも、足利時代以降徳川時代、明治時代を経て第二次世界大戦終戦に到るまで、『太平記』が基調をなしていることに驚いている。歴史書としては、水戸光圀編纂の『大日本史』が大きな影響を及ぼした。南朝後醍醐天皇大塔宮護良親王楠木正成一族の関係、わけても大義名分論と「忠臣」という概念が、日本史の背骨を支配していたのである。事実・事績を中心とする客観的な記述の日本史を我々が手にしたのは、第二次世界大戦後なのである。わずか六十年程度しか経っていないのだ。それまでは、歴史に修身教育が同居していた。時の政権を倒すには、天皇を味方につけてクーデターを起こすことが、わが国における政治の大義名分であった。天皇だけが国体の唯一絶対者であり、これを排除することは有り得なかった。天皇の承認の元で、政権が入れ替わることは当たり前のこととして是認されていた。昭和初期の五・一五事件二・二六事件などにしてもこうした思想背景を持っているようだ。
 いまだにアジア各国の歴史は、時の政権に利用され、国際的な主張が相互に食い違っている。歴史を純粋に客観的事実の集積として編集することが出来れば理想的。そこから何を学ぶかは、歴史とは別のジャンルで議論すればよい、と思うのだが。