あやめ
万葉集や伊勢物語の時代は、菖蒲のことをあやめと呼んでいた。現代の我々が目にするあやめも菖蒲も鑑賞用として手が加えられた結果なので、参考にはならない。
霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲(あやめ)草(ぐさ)玉に貫く日を
いまだ遠みか 大伴家持
*カッコウを待っているが未だ来ない。菖蒲草を薬玉にして
緒に通す日が遠いからなのか。
「かりん」七月号で馬場あき子は現代のあやめを歌っている。七首の内から四首をあげる。
A ほの白く未完成なる肉体の生れゐる沼にあやめ立つなる
B 青々といまだ花なきあやめ田の哲学のやうな香のうすき風
C 空を裂き森裂き水沼裂き来たり雷電は白きあやめ見せたり
D 二度とせぬ恋のにがさも恋しさも忘れねばあやめ雨のむらさき
Aの肉体とは何か?普通に読めばあやめとは別物と理解するはず。連作でないとあやめの沼になにかほの白い生物が生れつつある思うはず。だが、後の歌から「ほの白く未完成なる肉体」はあやめのことだと判明する。Bのポイントはもちろん「哲学のやうな」という作者の主観である。
Cは特に注釈を要しない。Dは少し分りにくいが、伊勢物語の世界を連想すれば雰囲気として、つまり詩として感受できる。