天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

戦後詩

 一泊二日で京都、名古屋へ出張した。前日に買った鮎川信夫大岡信北川透編『戦後代表詩選』(思潮社)を持っていって読んだ。解説を「世界史的現在のなかの現代詩」というとてつもない題で野沢啓という人が書いているが、評価の高いといわれる詩を読んでも世界史などどこにも感じさせはしない。
「(鮎川・大岡・北川の鼎談で)一貫して言われているのは、〈戦後詩〉の実質は対社会的、対歴史的な攻撃性、批判性だったということであり、しれが次第に失われてきているのが昨今の現代詩であるということの認識である。」とか、「世界や思想の動向と無縁であるようなところに新しい詩の可能性は存在するはずがないのである。」とか、えらく高踏的主張をなしている。
 だが、世界や思想の動向と密着した詩は所詮、その時代が過ぎれば、あるいはその時代を経験した人にしか理解できないものになり、時間がたてば忘れ去られてしまうであろう。こういう主張が説得力を持つためには、戦後代表詩から典型例を引いて縷々解析してみせる必要がある。それが一切無いし、初めに述べたように、世に評判の高い詩は、どうもそんな高踏的な作品ではないのである。


 昨夜は、名古屋駅高島屋ビル十二階の竹葉亭で、ひとり食事。
   酸漿の殻に入った雲丹、表面を焼いた鰹の切身にレモン、
   鯛とハマチの切身に山葵、黒瓶という芋焼酎をロックで注文、
   田村隆一の「言葉のない世界」という詩を二度三度
   読み返した。それから「ひつまぶし」を食べた。
   テーブル敷きには、
       かささぎや けふ久かたの 天の川  〈守武〉