天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

花火

 今の季節、日本の夜はあちこちで花火が打ち上げられている。歴史を見てみると、中国は宋代(九六0年〜一二七九年)頃から、一方ヨーロッパでは、フィレンツで十四世紀後半頃から始まったという。わが国には、十六世紀半ばの鉄砲伝来に続いて入ってきたらしい。盛んになったのは、両国の川開きでよく知られるように江戸時代になってからである。花火の多様さという点では、世界に冠たる国であろう。もはや芸術といってよい。

 花火を詠んだ短歌はどうか? 『日本歌語事典』から三首をひく。

  ややありてふたたびもとの闇となる花火に似たる恋とおもひぬ
                       吉井 勇
  暑き日のいまだ明るき街空に光なき花火はぜてとどろく
                       佐藤佐太郎
  音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる
                       中城ふみ子

それぞれの歌人の特徴がよく現れているといえよう。ただ吉井の歌は、ありきたりの概念的な感じ。佐太郎の歌は、まことに写実の極致といえる詠みぶり。中城のは、発表当時、スキャンダラスな作品と非難を浴びた例である。


 俳句ではどうか? 角川の『俳句歳時記』から三句ひく。

     温泉(ゆ)の村に弘法様の花火かな    夏目漱石
     暗く暑く大群衆と花火待つ     西東三鬼
     手花火を命継ぐ如燃やすなり    石田波郷

こちらもそれぞれの作風が現れている。漱石の句では、「弘法様の花火」が分からない。三鬼の特徴は、特に上五中七の措辞に出ている。波郷では、中七である。


 今夜も、江ノ島か鎌倉で打ち上げる花火の音がここまで聞こえている。