短詩型の自立性
「俳壇」八月号で詩人・思想家の吉本隆明が「詩歌のゆくえ」という題で語っているが、俳句に関する彼の考え方が参考になる。以下に要約しておく。
*芭蕉と蕪村とでは、比較しようがない。蕪村は絵描きであり、
俳諧は余技であった。
*俳句では、主観性の言葉と客観性の言葉を交互に、あるいは
上句下句でつける。それがなければ俳句にならない。
次に芭蕉句の例。イタリックにした言葉が主観である。
あらたうと青葉若葉の日の光
荒海や佐渡によこたふ天河
夏草や兵どもがゆめの跡
暑き日を海にいれたり最上川
*俳句が一行の詩なら、のっぺらぼうで、長続きはしない。
それぐらいなら詩を書いたほうがいい。
*自立性を保てば他ジャンルとの交渉ができる。
*『万葉集』は写生歌ではない、だけどみんな写生歌だと
思っている。形式は和歌だが、本当の意味での
(西洋的な意味での)詩を詠んだのは斉藤茂吉である。
*近藤芳美の短歌は、逆に主観ばかりのものが多い。
主観ばかりじゃないかといわれるような短歌になっている
ので、少したつと「これはのっぺらぼう過ぎて短歌には
ふさわしくない」と言われるだろう。
*素人と専門家との違いは、自分の芸術観を持っているか
否かで決まる。