切れ+「〜かな」
一昨日は短歌の独立した結句の解釈について話したが、俳句にも同様の課題がある。その典型が今回の話題である。即ち、切れ+「〜かな」の構造で結句の座五が独立している場合である。
俳句において座五の「かな」は強い切れになり、通常は
野ざらしを心に風のしむ身哉 芭蕉
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉
のように、「かな」のところ一ヶ所で切れる。二句とも初五中七は座五を修飾している構造である。ところが、「かな」以外の文中で切れる作品もある。『古句を観る』の春の部から、例を以下にあげる。いずれも中七で切れが入っている作りである。俳句での切れは、文中にせよ文末にせよ一ヶ所が望ましいとされるので、これらの例は目立つ。著者・柴田宵曲の解釈を要約してコメントにしておく。「汐干かな」「菫かな」「あほうかな」「やなぎかな」いずれも独立した座五である。従って、上句との関係の読み方が鑑賞のポイントになる。
行過て女見返す汐干かな
*汐干潟で出遭った女が、行過ぎてから此方を見返した、
あるいは女ではなくて、作者が女の方を見返った。
新道の置土かわく菫かな
*新しく作った道の上に置土をする、その土の乾いた
ところに菫が咲いている。
いかのぼり見事にあがるあほうかな
*凧を揚げ得た阿房が主眼ではない。阿房の手から見事に
大空に揚った凧が主眼なのだ。
「見事にあぐる」でなしに、「見事にあがる」である点
にも注意要。
水汲の手拭落すやなぎかな
*水を汲みに来た人が、手拭を地に落とす、その白い色と、
緑に垂れた柳との対照がこの句の主眼。
もっと微妙な例として次の三作品。柳に物を掛けているのは、どの句になるか? なよなよした柳の枝垂れを見るとせいぜい傘くらいであろう。染物や看板と柳はどのような位置関係にあるか、読者が想像するしかない。
染物をならべて掛ける柳かな
笠かけて笠のゆらるる柳かな
目ぐすりの看板かける柳かな